日清・日露戦争期
地租改正や殖産興業によって力をつけ、近代化を図った日本は清国と全面戦争に突入します。アジア一の大国だった清国を打ち破った日本は欧米列強の一角であるロシア帝国と戦いました。日清・日露戦争に勝利した日本は一躍、欧米列強と肩を並べる存在となります。日露戦争勝利の7年後にあたる1912年、明治天皇がこの世を去りました。
日清戦争と明治天皇
19世紀後半、日本は朝鮮半島への進出を図ります。朝鮮国内では宗主国の清国を頼る事大党と日本を頼る独立党が争っていましたが、1884年の甲申事変で独立党が敗れ、清国と結ぶ保守派の事大党が政権を握りました。
1894年、朝鮮半島で甲午農民戦争が起きると日本は朝鮮に出兵。清国も朝鮮半島に出兵したため、両軍が朝鮮半島でにらみ合いました。伊藤内閣の外務大臣だった陸奥宗光は特命全権公使の大鳥圭介に何としてでも開戦の口実を作るよう指令。この結果、日本と清国との交渉は決裂し戦争状態に突入します。
この時、明治天皇は「今度の戦争は大臣の戦争であり、朕の戦争ではない」と不快感を示しました。伊藤内閣も当初は戦争に慎重でしたが、イギリスと日英航海条約を締結したことによりイギリスから干渉される可能性が低下したことを受け、開戦に踏み切ります。自分の意に反する戦争でしたが、明治天皇は開戦の詔書に署名しました。
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日露戦争と明治天皇
日清戦争が日本の勝利に終わったのち、下関条約で台湾・澎湖諸島に加えて遼東半島も清国から割譲させることに成功しました。しかし、ロシア・ドイツ・フランスが遼東半島を清国に返還するよう日本に圧力をかけます。この事件を三国干渉といいました。日本は三国干渉に屈し、清国に遼東半島を返還します。
ところが、ロシアは返還された遼東半島を清国から租借。わがものとしてしまいました。日本国内ではロシアと戦うべきだとする論が急速に高まります。
1904年、日本がロシア艦隊を攻撃することで日露戦争が始まりました。日露戦争直前、明治天皇は側近に「今回の戦は朕が志にあらず、然れども事既に茲に至る、之れを如何ともすべからざるなり」と述べ、戦争の前途を心配します。
実際、日本とロシアの国力差を考えると明治天皇が心配したのは当然のことでしょう。日本は戦争に勝利しますが、日清戦争と比べ物にならない大きな犠牲を払いました。
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明治天皇の死と乃木希典の殉死
1912年7月11日、明治天皇は東京大学の卒業式に出席しましたが、その時に体調不良を訴えます。侍医で対応できず、青山胤通、三浦謹之助が天皇を診察し尿毒症と診断しました。
7月28日にはけいれんが始まり7月30日に亡くなりました。明治天皇が崩御すると大正天皇が即位します。9月13日、現在の神宮外苑で明治天皇の大喪の礼が行われました。
その後、明治天皇は京都市伏見区にある伏見桃山陵に埋葬されます。1920年に明治神宮が造営されると祭神として祀られました。
明治天皇の大喪の礼が行われた9月13日、日露戦争の旅順攻略戦の指揮を執った乃木希典と妻の静子が殉死します。乃木希典の殉死が報道されると、悲しみの声が相次ぎました。乃木の死後、全国各地に乃木神社が建立されます。
激動の時代を生き抜き、近代国家の礎を築いた明治天皇
明治天皇が生きた時代は日本でも屈指の激動の時代でした。明治天皇はそれまで当たり前だった髷をゆい宮中で暮らす生活から、髷を落とし洋装して国民の前に立つ君主へと変貌を遂げます。明治天皇はすぐれたバランス感覚を発揮し、大日本帝国憲法のものとでの立憲君主であるという自分の立場をしっかりと意識して行動したのではないでしょうか。