なぜ日本書紀の倭の五王は中国史書とは一致しないのか
また、中国の正史には、5世紀に倭には五王がおり、中国朝廷に支配地の認定を求めて使者を使わしたことが記載されています。しかし、この倭の五王の中国正史に記載された家系図は、記紀における天皇家の家系図と一致するものはありません。仁徳天皇もこの倭の五王の一人とされていますが、家系的に一致しないのです。
そのために、倭の五王は大和朝廷(大王家)とは別の九州の勢力を言っているのではないかという説も有力になっています。いずれにしても古墳時代の考古学的な証拠と記紀の記載にはかなり解離があるのが現実です。そのために、この古墳時代についてははっきりと歴史として認められてはいません。
前方後円墳の地域的な広がり
もうひとつ、前方後円墳でわかっていることは、建設された古墳の設置地域が大きく広がっていき、大和朝廷(大王家)の力の広がりが見えるということです。
中国地方から埼玉県あたりまで広がり
古墳時代の前方後円墳は、西は中国地方から東は関東の今の埼玉県辺りまで広がっています。しかも、かなり規模の大きいものまであるのです。古墳時代は大和朝廷がこの本州の東北地方を除く範囲まで支配が及んだことをうかがわせますが、実際には各地に王が存在して連合国家の形になっていた可能性もあります。
また、前方後円墳は小規模なものでは東北地方でも見られるのです。
九州には前方後円墳はないのは何故か
しかし、九州にはほとんど前方後円墳は少ないのです。記紀にも、九州には何度も遠征の記述が見られます。ヤマトタケルノミコトによる九州征伐の記述、神功皇后と仲哀天皇と神功皇后の九州遠征などが見られました。すなわち、九州はもともと大和朝廷の大王家には従わない独立した勢力がいたことを示しています。それが邪馬台国の後継国家であった可能性もあるのです。
そのために、九州にはほとんど前方後円墳が見つからず、円墳が中心になっていると言えます。
古墳時代後期には大規模前方後円墳は減り円墳に戻った
古墳時代も後半になると大規模な前方後円墳は少なくなり、小規模なものか、円墳に回帰しています。7世紀築造と言われる高松塚古墳やキトラ古墳も円墳です。
大王家の力の低下を示しているのか
この古墳の規模縮小は大王家の力の衰えを示しているのかもしれません。応神天皇、仁徳天皇、雄略天皇の時代までは、記紀によるとかなり大王家の力は強かったと言えます。しかし、7世紀になると、大王の力は弱体化し、その王位は豪族たちの支持がなければ成り立たなくなってしまうのです。
継体天皇の前には世継ぎがいなくなり、応神天皇の5世の孫がなったとしており、実質的には今の天皇家(大王家)はこのときに途絶えている可能性も高いと言えます。
同時に大規模なお墓を作る力もなくなっていったのです。