古墳時代日本の歴史

現在の天皇家の祖先が生まれた「古墳時代」とは?詳しく解説!

古墳時代の象徴的な古墳

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古墳時代の象徴的な古墳はすでに記載したように前方後円墳になります。初期の頃にはホタテ貝のような形をしていますが、時代とともに次第に形も整っていきました。

古墳時代の代表的古墳の前方後円墳とは

前方後円墳は、もともと円墳であったものの周囲に堀を巡らし、それに祭祀をおこなう四角形の通路をつけたのが最初ではないかと言われています。しかし、はっきりとしたことはわかっていません。この考え方は、九州の円墳が移動してきた人々によって発展したという説が背景にあり、北九州地区から移動したということ自体が考古学的に証明されていないからです。

巻向の歴史や遺物を考えたとき、むしろ出雲勢力が移動してきたことをうかがわせています。大国主命の別名である大物主(おおものぬし)神が三輪山の神として大神神社の祭神になっていることや出雲との繋がり記事が記紀にも多く記載されているからです。

しかし、出雲の四隅突出墳は大和にはなく、いきなり箸墓が巻向に現れています。そのため、前方後円墳の起源ははっきりとわからないのです。

しかし、この前方後円墳が現れた時をもって古墳時代というようになっています。

初期前方後円墳の代表は巻向の箸墓

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奈良盆地中央の東部にある巻向地域には、箸墓だけでなく、多くの前方後円墳が3世紀前半から中盤にかけて現れています。巻向石塚古墳、巻向勝山古墳、巻向東田大塚古墳、ホケノ山古墳などで、とくにホケノ山古墳は一番古いと言われているのです。考古学上では、3世紀に入ってすぐに作られたと言われています。

この時期の奈良盆地の人口は1万人程度と言われており、箸墓のように周囲に300m近い古墳を地元の人々だけで作ることは不可能です。日本書紀にも、箸墓は「昼は人が作り、夜は神が作った」と書かれており、違う民族の人が一緒に作ったことをうかがわせています

この大和の地に新しい民族が入ってきて地元の人々を支配し、さらに大きな範囲の勢力を誇っていたことは間違いないでしょう。それが、大和朝廷、大王家として成立した最初だったと言えるのです。

古墳時代の代表的古墳は河内にある仁徳天皇陵(大仙古墳)

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大和、すなわち奈良盆地の巻向の北には、その後、大型前方後円墳を含む柳本古墳群が作られています。しかし、そのあとには大形前方後円墳は大阪の河内平野、今の堺市の辺りに移動しているのです。記紀においても神功皇后の時代に九州遠征をしたあとに、河内平野に落ち着き、応神天皇の時代には河内平野に落ち着いた記述が見られ、考古学的な古墳との整合性はとれます。

世界遺産にも登録された百舌鳥・古市古墳群と呼ばれる古墳群の中でも最大のものが、古代史上で言われている仁徳天皇陵(考古学上は大仙陵古墳)です。それに次ぐのが応神天皇陵(誉田御廟山古墳)になります。その規模は、エジプトのピラミッドなどにも匹敵する大きさで、大きな大和朝廷勢力の中心があったことが推測できるのです。ただし、巻向でも同じですが、古墳群というものがあり、司祭跡はありますが、大きな勢力がいたと考えられる宮殿や都跡いうものは見つかっていません。

それでも、古代史上では河内に朝廷が置かれていたと決めつけています。しかし、考古学上では都がどこにあったのか、本当に記紀に記載されていることが正しいのか結論付けられていないのです。

なぜ古墳は大和から河内に移動したのか

大王家(大和朝廷)は、大和の地からなぜ河内の地に移動したのでしょう。記紀には、仲哀天皇の皇后であった神功皇后が天皇とともに、反乱があった九州に遠征をおこなっています。しかし、そのすきに大和でも反乱が起き、大和に帰還できなくなり、河内に留まったことが記されているのです。古代史上では、これが、朝廷が河内平野に置かれ、そこに古墳群ができた理由と考えられています。しかし、同じ記紀の仁徳天皇のエピソードでは、すでに大和に帰還したような記述もあるのです。宮殿の高いところから民の姿を見たときに、人々の家(当時はまだ縦穴式住居)のかまどから煙が立ち上っていないのを見て民を救おうとした様子が記載されています。

したがって、なぜ河内に仁徳天皇陵があるのかも不明なのです。その辺の事情を記紀は伝えていません。したがって、河内に別の大きな勢力がいたと説もあり、考古学上では仁徳天皇陵とは確認されていないのです。

日本書紀と中国史書とは記載内容が一致していない?

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中国の歴代の王朝には正史と呼ばれる歴史書があります。基本的には、新しくできた王朝で、前王朝での出来事を前王朝の記録を元に記載された歴史書です。ほぼ、同時代資料と言えるでしょう。邪馬台国などで有名な魏史倭人伝も魏の次の晋王朝時代に書かれたものです。しかし、この倭人伝に記載された事実は記紀には記載がありません。邪馬台国がどこにあり、その女王であった卑弥呼の墓も見つかっていないのです。考古学上でも、京大学派は大和説を主張し、東大学派は九州説を唱えていますが、決定的な遺跡や特定できる古墳も見つかっていません。

ましてや、卑弥呼の時代は、3世紀前半と巻向に前方後円墳が表れた時期と一致しています。しかし、巻向に邪馬台国と証明できる証拠は何もないのです。卑弥呼の墓は、百歩の円墳となっており、箸墓を主張する人もいますが、規模も形も異なっており、とても邪馬台国とは言えません。

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