ロシアの強固策に世論はロシアとの戦争も辞さず
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三国干渉によって遼東半島の割譲を清国に返さざるを得なくなった日本では、ロシアの横暴に対して批判が集中し、対ロシアの強固論が高まっていきました。ロシアとの戦争を主張する新聞社も多くなっていったのです。
ロシアの南下政策にはイギリスも警戒
一方で、当時の最強国であったイギリスでは、ロシアが南下政策をとることに対して警戒感が高まっていました。イギリスは中東地域やその東側のインドでも植民地政策をとっており、ロシアがクリミア半島からさらに南下し、中東地域などでイギリスと衝突することを警戒していたのです。
日英同盟締結の直接のきっかけ
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イギリスがロシアの南下政策を警戒している頃に、日本もロシアの朝鮮半島への進出を警戒していました。ロシアは遼東半島に進出して日本の関東軍とにらみ合いになり、大韓帝国と国名を変えた朝鮮王朝に対して介入をおこなうようになったのです。
もともと三国干渉の恨みがあるだけに日本国民の怒りはますます高まっていきました。
ロシアとの戦争機運の高まりへの危機感
しかし、当時の日本政府の財政状況は、日清戦争の賠償金を使い果たして危機状況にありました。そのため、戦争に耐えられるだけの国力がないことを知っていた伊藤博文などの政治家は危機感を持ち、ロシアとの強調外交を目指していました。特に伊藤博文は直接ロシアを訪問して和平交渉をおこなっていたのです。
和平派伊藤博文のロシアとの交渉決裂
伊藤の努力もむなしく、日本とロシアの交渉は決裂してしまいました。その傷心の帰国の途中にイギリスに立ち寄った伊藤博文は、イギリスもロシアの南下政策を警戒していることを知ります。そして外務大臣の小村寿太郎に命じてイギリスとの同盟を目指したのです。
ロシアの南下政策はクリミア半島から中東に向かってイギリスとの対立を生む
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当時、ロシアは、東アジアで朝鮮半島へ進出するとともに、西ではクリミア半島をオスマン帝国との数次にわたるクリミア戦争に勝ち、さならなる南下を目指していたのです。その南下の先にはイギリスが支配する中東地域やインドがありました。中東はこの当時、オスマン帝国の支配からイギリスなどのヨーロッパ列強国が植民地にしてしのぎを削っていました。イギリスは、3C政策といって、カイロとケープタウンとカルカッタを結んだ三角形地域の植民地化政策をとっており、ロシアの南下政策とは対立する可能性が高かったのです。
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