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「シェーンブルン宮殿」とは?ベルサイユを凌ぐ宮殿を目指した歴史をわかりやすく解説

ウィーン郊外にあるシェーンブルン宮殿は、かのハプスブルク家の夏の離宮として建てられたもの。ハプスブルグ家の宮殿はウィーン近郊に数か所ありますが、中でもシェーンブルン宮殿は最大規模を誇る巨大宮殿。外側はバロック、内装はロココ調、艶やかで壮麗なその姿を一目見ようと、多くの観光客が訪れるウィーン屈指の観光スポットとなっています。ため息が出るほどの美しさを誇る宮殿と庭園は、どのようにして造られたのでしょうか。

「美しい泉」が語源・シェーンブルン宮殿建設の歴史

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シェーンブルン宮殿というと、マリア・テレジアのための宮殿というイメージがありますが、この場所にはそれ以前から宮殿が建てられていました。ウィーンの統治者たちに愛されたシェーンブルン宮殿。現存する建物が建てられるまでの歴史をたどってみましょう。

広大な狩猟場と「美しい(シェーナー)泉(ブルンネン)」

シェーンブルン宮殿は、ウィーンの中心部からそれほど離れてはいません。この地域は古くから「カッターブルグ」と呼ばれ、修道院の荘園などが広がるのどかな場所だったそうです。

ウィーンは長らく、ハプスブルグ家が統治していました。ハプスブルグ家とは、古代から中世にかけて、政略結婚を重ねて血縁関係を広げ、ヨーロッパ全域に領土を拡大していった有力貴族。オーストリア、スペイン、ナポリ、ハンガリーなど、数々の王国を傘下におさめ、絶大な権力を誇っていました。

しかし14世紀頃から、ヨーロッパに脅威が迫ってきます。オスマン帝国のヨーロッパ進出。その脅威は次第に広がり、1529年、ついにウィーンも包囲されてしまいます。ウィーンはかろうじて陥落だけは免れましたが、バルカン半島やハンガリーなどはオスマン帝国に掌握され、その影響は17世紀末まで続きました。

ウィーンからオスマン帝国の脅威が去った後、1569年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世が狩猟地としてカッターブルグ一帯の広大な土地を買い上げます。マクシミリアン2世はハプスブルグ家の系統。この地は以後、ハプスブルグ家所有の領地となり、住居のほかに果樹園や遊園地、動物園などが築かれたのだそうです。

17世紀初頭、マクシミリアン2世の四男にあたるマティアス皇帝が狩猟に出ていたときに、この地に泉を発見。「美しい泉」という意味を持つ言葉「シェーンブルン」という名前が使われるようになりました。

しばらくは穏やかな時代が続きましたが、17世紀後半、再びオスマン帝国がウィーンを包囲。シェーンブルンの居城や施設も大きな被害を受けたと伝わっています。

ハプスブルグ家がくつろぐ夏の離宮

時の皇帝・神聖ローマ皇帝レオポルト1世は苦戦を強いられながらもオスマン帝国に抵抗。ウィーンを取り戻し、ハンガリーなど東側の領土拡大にも成功します。

平安を取り戻したレオポルド1世は、息子であり後継者でもあるヨーゼフのために、シェーンブルンに新しい宮殿を建設することに。ハプスブルグ家・神聖ローマ帝国の力を示す意味も込めて、壮大で豪華な宮殿の建設を計画。一説には、フランスのヴェルサイユ宮殿を意識した、あるいはそれを超えるほどの大きな宮殿の建設をとの声が上がったと伝わっています。

しかし、丘陵地帯に広大な平地を作ったヴェルサイユ宮殿を模した基礎工事を行うには、当然のことながら莫大な費用が。当時のハプスブルグ家には、そんな壮大な宮殿を建てるだけのお金がありませんでした。計画は速やかに見直され、第一案より規模を縮小した第二案が作成されます。平らなところに庭園を造る計画に変更するもやはり予算が足りない。計画は何度も修正され、建設開始まで十数年の歳月を要することとなったのです。

そして1750年頃、マリア・テレジア時代にようやく、シェーンブルン宮殿が完成します。当初の予定では外壁を金色に装飾する予定でしたが、マリア・テレジアが「金色だとお金がかかるから黄色がいいわ」と言ったとか言わないとか。この黄色は以後、シェーンブルン宮殿のシンボルカラーとなります。柔らかで気品あふれる、美しい色合いです。

ハプスブルグ家の宮殿から人々の憩いの場に

マリア・テレジアとは、あのフランス王妃、マリー・アントワネットの母親としても知られています。マリア・テレジアはシェーンブル宮殿を夏の離宮としてよく利用していたのだそうです。そして、マリー・アントワネットが子供のころ、この宮殿にモーツアルトが招かれ、マリー・アントワネットに求婚したという逸話が伝わっています。

以後、この宮殿はハプスブルグ家が休暇を過ごす場所として、代々愛され続けてきました。

しかし20世紀に入って、600年以上続いたハプスブルグ家の栄華も終焉を迎えます。第一次大戦後、オーストリアも共和制の波が押し寄せ、時の皇帝カール1世は国事から退くことを宣言。ウィーンもハプスブルグ家の統治からオーストリア共和国の都市へと変わっていきます。カール皇帝の宣言が行われたのもシェーンブルン宮殿。以後、この宮殿はオーストリア政府の所有となります。数々の歴史の舞台となってきた宮殿にも、変化の時が訪れました。

シェーンブルン宮殿は、王宮としての役割を終え、主を失いましたが、マリア・テレジアが愛した建物は当時の気品をたたえたまま、その美しさを今に残しています。

1996年、「シェーンブルン宮殿と庭園群」として、ユネスコの世界遺産に登録されました。年間100万人を超える観光客が訪れるといわれており、広大な庭園や宮殿、敷地内に整備された動物園などを観光して楽しんでいます。

広大で豪華で美しい!シェーンブルン宮殿の見どころとは

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絶対的な権力を誇っていたハプスブルグ家の宮殿であるシェーンブルン宮殿は、ウィーン中心部からそれほど離れていないため、毎年多くの観光客が訪れる有名スポットとなっています。いや、たとえ遠く離れていて鉄道やバスを乗り継がなければならなかったとしても、シェーンブルン宮殿の壮大さは一見の価値があるといえるでしょう。いったいどんな宮殿なのか?見どころをご紹介します。

思わずため息……超巨大建造物・シェーンブルン宮殿

幅およそ180m、奥行き55m、クリーム色に彩られたバロック様式の美しい外観。部屋の数は1400以上、調理場は139。最盛期には1000人以上の使用人が住んでいたといわれています。とにかく広い、広い。かなり遠くからでないと、建物の全貌はわかりません。それがシェーンブルン宮殿です。

ベルサイユほどのきらびやかさはありませんが、品格漂う内装は見ごたえあり。観光用に公開されている部屋はおよそ40ほどですが、建物がとにかく大きいので、見学にはかなり時間がかかるはずです。

見どころのひとつが、ヨーロッパ治安維持のために催されたウィーン会議の舞踏会会場「グローセ・ギャラリー」。舞踏会は盛り上がりましたが会議自体は芳しくなく、その状況を表した「会議は踊る、されど進まず」という有名なセリフは今に語り継がれています。長さ40m、幅10mの大広間。特に注目したいのが天井。天井画やシャンデリアの美しさは秀逸です。

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