平安時代日本の歴史

志半ばで左遷された「菅原道真」の人生を元予備校講師がわかりやすく解説

道真の死と“天神様”

九州の大宰府に追放された道真は失意の日々を送ったといいます。903年、大宰府で謹慎していた道真は都に帰ることなく、この地で亡くなりました

道真の死後、朝廷では醍醐天皇や藤原時平を中心とした延喜の治とよばれる政治が展開します。しかし、時平は909年に39歳で死去しました。若くしてなくなったことから、菅原道真の怨霊によって殺されたと噂されます。

それから、925年までの間に昌泰の変に関連した人物が次々と病死を遂げたことから、これらも道真の祟りとされました。

極めつけは930年におきた清涼殿落雷事件。朝廷の会議が開かれていた清涼殿に雷が落ち、大納言藤原清貫ら朝廷の要人の多くが雷に打たれるなどして死傷します。それを目撃した醍醐天皇は心痛のあまり病となり、3ヵ月後に没しました。

この落雷は怨霊となった道真が雷神となり、清涼殿に落としたのだと噂されます。朝廷は道真の怨霊を鎮めるため、流罪となった道真の子らを呼び戻し、北野天満宮を建立して道真の霊を祭りました。以後、道真は天満宮の神である「天神様」として尊敬されます。

道真を慕って京都から九州まで飛んだ「飛梅」

image by PIXTA / 28487953

道真が昌泰の変で失脚し大宰府に流されるとき、屋敷の中にあった木々に別れを告げます。その時に道真が読んだのが「東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅花 主なしとて 春を忘るな」という歌です。道真を慕った梅は京都から大宰府まで一夜で飛び、その地に根を下ろしたというのが飛梅伝説でした。現在の太宰府天満宮にある飛梅のことだそうです。太宰府天満宮にお越しの際は、飛梅を見て道真に想いを馳せるのも一興ですね。

 

1 2 3
Share: