平安時代日本の歴史

志半ばで左遷された「菅原道真」の人生を元予備校講師がわかりやすく解説

讃岐守任官

886年、道真は現在の香川県にあたる讃岐国のトップである讃岐守に任じられ、任地の讃岐に向かいました。文章博士を辞任し、学者としてのキャリアを中断しなければならなかったことは道真にとって残念なことだったようで、送別会の宴で道真は都を離れがたい心情を漢詩で詠んでいます。

讃岐に赴任した道真は、民衆の貧しい暮らしを目の当たりにして驚きました。あまりの生活の厳しさに土地を捨てて逃げだした農民たちが、生活できずに元の土地に戻る様子を見て、「慈悲」をもって政治にあたらなければ、生活に苦しみ土地を捨てる農民は増えるばかりだと気づきます。

讃岐国は降水量が少ない地域でした。現在でも、香川県には多くのため池があるのはそのためです。道真は雨乞いの儀式をおこないました。雨が実際に降ったかどうかはともかく、住民の生活改善を願ったことは確かなようです。

阿衡の紛議に対する建言

4年間の讃岐守の任期中の888年に阿衡事件が起きました。阿衡事件とは宇多天皇と藤原基経が対立し、宇多天皇が基経に屈服した事件のこと。

887年に即位した宇多天皇橘広相に命じて藤原基経を関白とする詔勅を書かせます。ところが、詔勅の中にあった「宜しく阿衡の任を以て卿の任とせよ」という一句が問題となりました。

ある学者が「阿衡は名誉職で実権がない」と基経に告げたからです。それを聞いた基経は一切の政務を放棄。宇多天皇は基経を必死になだめますが、基経は聞く耳を持ちません。

結局、宇多天皇が折れて橘広相を免職にすることで妥協をはかりました。それでも、基経の怒りは収まらず、橘広相を流刑にするよう求めます。これに対し、讃岐守の道真が基経に「これ以上の対立は藤原氏にとってもよくない」という意見書を提出しことをおさめました。

政治家、菅原道真

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阿衡事件で皆が恐れる藤原基経に意見書を出し、事件を収束させた道真は宇多天皇の信任を得ます。基経の死によって藤原北家の力が一時的に弱まった隙に、宇多天皇は道真を登用して藤原氏に対抗しました。道真は宇多天皇の信任を得て昇進。宇多天皇が退位し、醍醐天皇が即位しても昇進が続きます。しかし、道真は昌泰の変で失脚。大宰府に流され、その地で生涯を終えました。

藤原基経の死と宇多天皇の信任

891年、最高権力者だった藤原基経が死去します。基経が死去した際、長男の時平はまだ若かったので、宇多天皇は政治の主導権を取り戻すことができました。

宇多天皇は阿衡事件での菅原道真の行動に注目。道真は徐々に出世街道を歩むようになります。891年、出世街道の登竜門で天皇の秘書役ともいえる蔵人頭に就任。893年には閣僚にあたる参議に就任します。宇多天皇は道真の優秀さを知るとさらに道真を昇進させました。

道真は895年には上級貴族といえる従三位、権中納言に任じられます。さらに、道真の長女は宇多天皇の后の一人になり、三女は宇多天皇の王子である斉世親王の妃となるなど、皇族との関係も強化。藤原氏に対抗する勢力となっていきました。

遣唐使停止の建言

894年、道真は遣唐大使に任命されます。日本から中国の唐に行く遣唐使のトップである遣唐大使は重要な職とされてきました。しかし、このころの唐は混乱状態にありました。

875年に塩の密売商人だった黄巣が農民らを指導して大反乱を起こします。黄巣は勢力をどんどん拡大して都の長安を占領し、皇帝を自称。唐の皇帝は四川省に落ち延び、異民族に救援を求めました。救援要請に応じた異民族の李克用は長安を攻撃。精強な李克用軍は黄巣軍を撃破。長安を取り戻します。

このとき、李克用軍は長安に火をかけました。その結果、唐王朝の時代に築かれた多くの建物が焼失。文人たちも散り散りになり、繁栄した唐の文化は失われてしまいました。

反乱の拡大と唐の混乱を知っていた道真は遣唐使派遣そのものを停止するべきだと進言。これが受け入れられ、遣唐使は停止されました。ちなみの、唐は907年に滅亡しています。もし、道真が唐にわたっていたら帰国できたかどうか、怪しいものでしたね。

昌泰の変で失脚

897年、宇多天皇は突如、天皇の位を醍醐天皇に譲って上皇となりました。道真は醍醐天皇の下でも昇進を続けます。899年には道真は右大臣となりました。一介の学者で中級貴族にすぎなかった道真の右大臣就任は嫉妬の対象となり、反道真派を左大臣藤原時平のもとに集める結果となります。

一方、宇多上皇と醍醐天皇の関係も微妙なものとなっていました。醍醐天皇は、次第に道真よりも時平の側に傾きます。

このとき、宮中で「道真は自分の娘婿である斉世親王を皇太子にしようとしている」という噂が広まりました。この噂が審議の対象となり、道真は右大臣の官職を解かれ大宰府に左遷されます。

道真だけではなく、道真の子も流刑とされました。宇多上皇は道真を救おうと醍醐天皇に面会を求めましたが、果たせず、道真の処分が完全に決定。この事件を昌泰の変といいます。

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