3-2.「強訴」と「逃散」
どんなに作柄が悪かろうと搾取される年貢の税率は決まっていますから、大飢饉になればなるほど農民の生活は破綻へと追い込まれます。
特に冷害がひどかった東北地方では、翌年に植え付けるための種籾ですら食い尽くしてしまい、大量に餓死者が発生する有様。
そんな時に生活改善のため、農民たちが取る方法は二つしかありません。生活が立ち行かなくなり農地を放り出して逃げてしまう「逃散(ちょうさん)」、そして村連合組織による「強訴(ごうそ)」という方法がありました。
年貢は農民個人にではなく「村」に課せられていましたから、名主(庄屋)や組頭、百姓代など村役人を中心として村民が団結する傾向にあり、そういった村々が寄り集まって地域の村連合組織を形成していたのです。
3-3.百姓一揆の作法が確立する
おかしな話ですが、ちょうど江戸時代中期頃から百姓一揆を行う際の流れや作法が確立していきました。いつの頃からか「嘆願が通りやすい方法」いわゆるマニュアルとして全国に流布していったものと思われますね。
年貢減免嘆願の場合、村の有力者である庄屋クラスが嘆願書をしたためて訴え出ます。交渉の末、これが通らなかった場合は強硬手段に訴えることに。
誰が首謀者なのか?わかりにくくするために「傘連判状」または「車連判状」と呼ばれる署名を行い、参加した者が互いに平等であり、連帯責任を負うという確認を行いました。
3-4.時代劇でよく見られる百姓一揆の光景
一揆の参加者たちは威圧のために、手に手に得物(竹槍や鎌など)などを持ち、村旗を押し立てて代官所や藩庁へ押しかけたといいます。この形態が定着したのは寛延年間(1750年頃)以降だとされていますね。
しかし、いくら一揆衆が示威行動をしようと武力衝突はほとんど起きませんでした。なぜなら、嘆願書を持って訴え出た「強訴」ですから、役人側が嘆願書を受け取るしか方法がないからです。
その上で嘆願の内容が吟味されますが、集団による「強訴」は固く禁じられていたため、やはり首謀者は厳罰に処せられることになりました。
ここで大事なのは、訴え自体は認められた権利でしたから、厳罰に処せられる理由としては、集団で徒党を組んだことによる騒擾罪として咎められるということなのですね。
3-5.一揆側の最終手段とは
担当役人を飛び越して、さらに上層である藩主や幕府に直接訴えを起こす「越訴(おっそ)」という手法もありましたが、正当な手続きを踏まない訴訟であるため、きちんと取り上げてくれるかどうかの確証もなく、最終的な手段として用いられました。
こんなことをされてしまっては藩の面目も丸つぶれですし、「藩政が行き届いていない」というレッテルが貼られることとなります。最悪の場合、「政治が不届き」だという理由で改易の対象にもなったのです。
百姓一揆の首謀者は多くが処刑されることになりましたが、皆のために立ち上がった勇気ある行動は「義民伝説」となり、現在でも顕彰されていますね。各地にひっそりと顕彰碑が建っているのも、そのためなのですね。
3-6.幕府老中すら動かした郡上一揆
By のりまき – 本人撮影, CC 表示 3.0, Link” target=”_blank”>
江戸時代中期、郡上藩(現在の岐阜県郡上市)で起こった典型的な百姓一揆と呼べるものですが、特筆すべきは、郡上藩農民の粘り強い行動や、当時の幕閣を動かしたこと。またそれによって藩主そのものが改易されてしまったという点にあるでしょう。
詳しい経緯の説明は避けますが、財政難のため年貢徴集法の改正を図った藩主金森氏。粘り強い農民たちの反発に遭い、幕府高官とも結託して事態の鎮静化を図りますが、まさかの老中への越訴(駕籠訴)によって騒動が露見してしまい、幕府高官の処分と金森氏の改易によって終止符が打たれたという事件です。
レアケースですが、搾取される側の弱い立場であっても、やり方によっては覆すこともできますし、幕府がいかに生産者である農民を大事にしていたのか?また政治に対していかに品行方正であらねばならないと考えていたのか?よくわかる事例ですね。
4.江戸後期に頻発した「打ちこわし」とは?
月岡芳年 – 佐々木寬司・保立道久『高等学校 日本史A 改訂版』清水書院、平成20年2月15日再販発行、平成18年3月20日文部科学省検定済、高等学校地理歴史科、35 清水 日A 09、ISBN 978-4-389-60010-5 、59ページに掲載。, パブリック・ドメイン, リンクによる
一般的に江戸時代の百姓一揆は、単に訴えを認めてもらうための集団訴訟だったのに対し、江戸時代後期になって頻発した「打ちこわし」は、まさに民衆の暴動と呼べるものでした。どのようなものだったのでしょうか。
4-1.主に都市部で発生した打ちこわし
「百姓一揆」は読んで字のごとく農民を主体にして構成されていました。日本全国どの場所でも起こる可能性があり、ひたすら年貢や夫役の減免を求めたものでした。
いっぽう「打ちこわし」は主に都市部で発生することが多かったようです。為政者に対して何かを要求するわけでもなく、ひたすら商家や富裕層の屋敷へ襲い掛かったのでした。
いわば無秩序な民衆暴動の一種であり、デモでもなければ集団訴訟でもありません。まさに人々の不平不満が爆発した一種の集団ヒステリーともいえるのです。
4-2.打ちこわしが起こった理由
江戸時代に頻発した飢饉は、農村部だけでなく都市部をも直撃しました。全国的にコメの流通が少なくなれば価格は高騰しますし、値上がりを狙って富裕商人たちが買い占めに走るからです。
必然的に都市部に住む貧しい庶民たちは、コメが高すぎるために買うことすらできず、江戸や大坂などの大都市ですら庶民たちは飢えに苦しみました。
そういった不満が爆発したとき、不正に利益を得ていると思しき富裕商人の屋敷や蔵を打ち壊して略奪に走ったのです。しかし道徳観念が根付いていた江戸時代にあって、不当な略奪は間違っているとして家屋の破壊だけで済ますことも多かったようですね。
大坂で起こった「大塩平八郎の乱」も、ある意味で打ちこわしの拡大版だといえるかも知れません。