2-2.中世の姿を引き継いだ百姓一揆
そういった不平不満が爆発したのが、江戸時代前期の百姓一揆の特徴だといえるでしょう。いわば戦いのプロである土豪地侍層と民衆が結託すれば、それは侮りがたい戦力になるのは必定でした。
特に有名なのが、紀伊国(北山)一揆と島原・天草一揆(島原の乱)です。戦いに慣れた土豪たちが作戦を立案し、組織化された農兵が実際に戦うという図式は、中世の一揆をそのまま引き継いだ形だといえるでしょう。これはのちの百姓一揆の形態には見られないことです。
安土桃山時代において秀吉の刀狩りによって武器を取り上げられたといっても、当時の日本にはそこらじゅうに刀や槍、鉄砲などが流通していましたから、いくらでも手に入ったことでしょう。
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2-3.大坂の陣に連動!紀伊国一揆
紀伊国(現在の和歌山県)は中世以来、非常に独立心が旺盛な土豪層が多く存在し、新しく紀伊の領主となった浅野氏に対しても反抗的な態度を取っていました。
1614年、豊臣と徳川が手切れとなり、戦いが避けられなくなった時、豊臣方の斡旋で「もし豊臣方勝利の暁には旧領を与える。」という好条件に飛びついた一揆勢は、浅野氏の背後を襲う計画を立てました。
しかし大坂冬・夏の陣の結果、豊臣氏が滅亡すると、彼らの運命は急転直下。取って返した浅野勢に一方的に破られ、多くの者が処刑されるという結果に終わったのです。
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2-4.異質だった島原・天草一揆
歴史上あまりにも有名な一揆なのですが、これを単に百姓一揆と呼ぶべきかどうか判断が分かれるところです。他の方も記事にされているので、島原・天草一揆の詳しい経緯説明は避けますが、単に一揆と表現するにはあまりに異質な事柄が多いのですね。
訴えがあれば正式な手続きを踏んで行うべきところ、代官所へ大挙して押し寄せ、その場で代官を殺害したこと。さらに本格的な合戦を挑み、島原城や富岡城を積極的に攻撃したこと。これはもはや寄せ集めの百姓の集団ではなく、れっきとした軍事力と呼ぶにふさわしいものでしょう。
島原・天草の土豪層が主導者となり、農民たちを組織化した結果なのですね。
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2-5.史上最大の宗教弾圧
島原・天草一揆では拠点にした原城において、彼らは決して降伏することなく全滅するまで戦い続けました。一揆の性格からすれば、一向一揆と非常によく似ており、それが単に「苦境を訴え、聞き届けてもらうこと」ではなく、「信仰の自由」や「死後の平穏」を望んでいたことがうかがえます。
一向一揆との違いがあるとすれば、それが仏教なのか?キリスト教なのか?という違いだけでしょう。
幕府は、かつて味わった一向一揆の恐ろしさと同様に、キリスト教による民衆の団結を何より恐れた。だからこそ宗教弾圧を繰り返し、鎖国に踏み切ったわけですね。
江戸時代初期の百姓一揆は、「自分の権利を主張することが目的」だったことがよくわかりますね。中世の考えが江戸時代になってもまだ残っていたことを意味します。
3.飢饉の頻発とともに変質していく百姓一揆
初期には幕藩体制に対する武力闘争の意味合いが強かった一揆なのですが、江戸時代中期ともなると「権力者に逆らう」という風潮は鳴りを潜め、代わりに自分たちの生活改善を訴えるための一揆が主流になりました。「自分の権利を主張する行動」から、「救いを求める行動」に移ったわけです。
3-1.飢饉が起こりやすかった江戸時代
江戸時代中期~後期にあたる時代は、気候学的には「江戸小氷期」といわれており、夏でも肌寒い天候が続き、ちょうどミニ氷河期と表現するほうがいいかも知れません。
新田開発も進むのですが、根本的な農業技術の進歩は停滞していたため、ひとたび天候不順による飢饉が起これば、それは農民たちの生活を直撃することになりました。
享保・天明・天保の江戸三大飢饉が起こったのは江戸時代後期ですから、百姓一揆が特に頻発した時期と見事に符合するのです。
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