室町時代戦国時代日本の歴史江戸時代

妻への愛情は異常!?ヤンデレ武将「細川忠興」をわかりやすく解説

妻のキリスト教改宗に怒るも…妻は揺らがず

忠興の冷酷な態度に、ガラシャは平然と応じながらも内心では苦悩していました。やがて彼女はある行動に出ます。それは、キリスト教に改宗することでした。

この時、ちょうど忠興は九州征伐に出征しており、帰ってきてこの事実を知りました。愕然とし、怒った忠興でしたが、ガラシャはもはや聞き入れません。忠興は報復のように「側室を5人持つ!」と言い放ち、ガラシャに離婚の意思を持たせるまで追い込みました。しかし、宣教師の説得によってガラシャが思い止まったため、2人は夫婦という形を崩すことはなかったのです。しかし、キリスト教という救いを得たガラシャの心は、もはや忠興の歪な愛情表現で揺らぐことはなくなっていました。

石田三成との不仲

時代は流れ、豊臣秀吉が亡くなると、にわかに天下の情勢は騒がしくなっていきます。ようやく動き出した徳川家康に対し、秀吉への恩義を掲げる石田三成が激しく反発し、石田三成に反感を抱く武将たちとの対立も鮮明化してきたのです。

ここに忠興も加わっていました。彼は石田三成を嫌っており、武断派(ぶだんは)と呼ばれる加藤清正(かとうきよまさ)らと共に、三成襲撃事件(未遂)にも加わることになるのです。

瞬間湯沸かし器・忠興と理屈の人・三成は、そもそも相容れる関係ではなかったようで、こんな逸話も残されています。

三成は忠興と何とか良い関係を築こうと、忠興を自邸に招きました。しかし少々忠興を待たせたあげく、入って来るなり柿を持ったお盆を置き、「越中殿(忠興のこと)は柿がお好きと聞いた。まあ食べてくれ」と言っただけで、待たせたことを謝りもしなかったそうです。

これには忠興は瞬時に激怒。そのまま帰ってしまい、残された仲介役だけがあたふたした…ということでした。

こんなこともあり、忠興は三成襲撃事件に加わったのでしょうね。

関ヶ原の戦いとガラシャの死

慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いが起きました。この時の忠興は、会津(あいづ/福島県)の上杉氏討伐に向かっていた徳川家康に従い、関東にいました。以前、秀吉の養子・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)が秀吉の勘気を被り切腹させられた際、秀次と交流があった忠興は連座させられそうになったのですが、それを助けてくれたのが家康だったのです。

一方、大坂で挙兵した石田三成は、まず、家康方=東軍に属する武将たちの妻子を人質に取ろうと考え、大坂の細川屋敷に兵を差し向けて取り囲みました。そこには、ガラシャがいたのです。

しかし、ガラシャは人質になることを拒みました。忠興はいつも出征する前、「もし妻の名誉にかかわることがあれば、妻を殺してみな切腹せよ」と家臣に言いつけていたのです。恐ろしい話に聞こえますが、忠興なら言いかねませんよね。

もちろん、ガラシャもそのことを知っていました。そして、彼女はそれを忠実に守ったのです。屋敷に火をかけさせると、家臣に自らを殺させ、炎の中に消えたのでした。

妻への罪滅ぼし…キリスト教式の葬儀に参列

ガラシャの死を知らされた忠興は怒り狂い、警護役だったにもかかわらず逃げた家臣を探し出して殺そうとしました(のち、断念)。また、逃げ出して無事だった長男の妻を咎め、離縁させようとしたほどです。長男はそれを拒んだため、忠興は彼を廃嫡してしまいました。それほど、忠興は混乱し、怒っていたのですね。

とはいえ、やはり彼はガラシャを愛していたことがわかる事実をお伝えしましょう。

彼女の死後、忠興はキリスト教宣教師に頼んで彼女の葬儀を行い、自らも教会に足を運び参列しました。妻のキリスト教改宗をあれほど反対した彼でしたが、妻の信仰を尊重して最後を送ってあげたというわけです。

戦国時代を生き延び、やがて丸くなる

image by PIXTA / 7269385

関ヶ原の戦いで東軍に属し、江戸幕府での地位を確保した忠興は、晩年に差し掛かるに従い、以前ほどの厳しさはなくなっていったそうです。将軍・徳川秀忠にも信頼されるほどの存在となった彼は、長寿を全うします。激しい気性でありながら、教養あふれ、トレンドセッターとしての役割を担った彼の意外な一面をご紹介していきましょう。

次のページを読む
1 2 3 4
Share: