角が取れて丸くなる
関ヶ原の戦いでの功績により、忠興はこれまでの丹後(京都府北部)12万石から小倉(福岡県北九州市付近)39万9千石に加増されました。
大坂の陣では二男が豊臣方に属するという想定外の出来事がありましたが、忠興は細川氏の主としての立場を見せ、二男を切腹させています。
その後、元和6(1620)年に三男に家督を譲ると、悠々自適の隠居生活に入りました。
この頃になると、忠興の性格の苛烈さは影をひそめるようになります。これまでの数々の行いをどう思っていたのかはわかりませんが、実に丸い人物になったそうですよ。廃嫡した長男とも和解しています。
家康の跡を継ぎ将軍となった秀忠から、天下をどう治めればいいかと問われた際には、「角ばった物に丸い蓋をするようになさるとよろしいでしょう」と答え、厳しすぎず、細かいことには目をつぶることも時に必要と示しました。その言葉をガラシャが聞いたら、びっくりするでしょうね…!
筆まめ、医学、武具、茶の湯…当代きっての文化人
忠興は、長男を勘当し、二男を切腹させていましたが、跡を継いだ三男・忠利(ただとし)には細やかに色々なことを教えていました。健康面でのアドバイスをしたり、家臣たちの扱いについて助言したりするなど、忠利宛ての書状の数は膨大なものだったそうですよ。それが現在にまで残っているので、私たちは当時のいろいろなことを知ることができたのです。
興味を持ったことは突き詰めるのが忠興の性格だったようで、医学に関心を持てばプロ以上の知識を持つまで勉強し、茶の湯はあの千利休に師事して高弟となり、武器や甲冑を自らデザインするなど、彼の文化的素養が相当に高かったことがわかります。意外な一面ですよね。
晩年は息子を心配しながら趣味に生きた忠興は、25年の隠居生活を送り、正保2(1645)年に83歳の長寿を全うしました。
ガラシャへの異常な愛情は、愛が強すぎたからなのか…それでも、武将としては超一流だった忠興。情勢を読み、的確に動くことができた優秀な人物でした。
多面性の男・細川忠興
By 不明。 – 永青文庫所蔵の肖像画。, パブリック・ドメイン, Link
細川忠興というとガラシャ、というほど、夫婦セットで語られることが多いのですが、忠興の愛情はなかなかこじれたものだったようですね。本能寺の変がなければ、2人の夫婦生活はもっと穏やかなものだったのかもしれない…とも思います。しかし、忠興が武将として有能で、文化人としても一流だったことは事実。この多面性は、とても興味を引きませんか?
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