3-5.誰もが安心して歩ける街道を整備する
いっぽうで国を豊かにする流通政策を画期的に進めていったのも道三の手腕でした。
例えばかつて道三の父がそうであったように、地元の商人が地方へ商売に出かけ、外で稼いだ金を持ち帰って流通させることは国内経済にとって大切なことです。
外で仕入れてきた物品を国内で販売し、流通させることも経済に刺激を与える大きな方法だといえるでしょう。
しかし、そのためには流通経路である街道をきちんと整備しなければなりません。大雨や地震などの天災で道路が使えなくなれば流通が滞り、経済に打撃を与えかねないわけですから。
そこで道三は大々的に街道を改修させ、誰もが安心して歩けるインフラ作りを推し進めました。特に美濃や飛騨地方は山地が険しいため、相当な難工事だったわけですが、お釣りがくるほど効果的な方法だったのです。
3-6.関所の撤廃
また、街道のあちこちにあった関所も撤廃させました。国内へ人やモノを呼び込むためには関所は大きな障害だったからです。軍事的にはマイナスになるかも知れませんが、道三はそれをわかった上で、経済発展の道を取ったのでした。
海へ繋がる港というインフラがない分、美濃国内に街道という流通経路を作ることで、スムーズに人とモノが行き交うシステムを作り出したのですね。
後にこういった道三の遺産を受け継いだのは信長でした。彼が喉から手が出るほど美濃を欲しがったのも、道三が築き合えた経済大国があったからなのです。
4.後世になって捻じ曲げられた道三像
まるで商人のような視点で経済改革を行い、美濃という国を豊かにし発展させていった斎藤道三。まさに民衆にとって善政を敷いてくれたといえるでしょう。しかし現在に伝わるイメージはいかにも「悪人」や「悪党」といったネガティブなものばかり…なぜそんな印象操作が行われたのでしょうか?今度はその謎に迫ってみたいと思います。
4-1.戦国時代は「ジャパン・ドリーム」の時代
戦国時代を含む中世という時代は、逆をいえば「自由な時代」だったという見方もできるでしょう。後の江戸時代ほど身分や出自や職業に縛られず、自由な気風に満ちていたといっても過言ではありません。
武士階級といっても、豊臣秀吉のような低い身分からでも能力次第では出世も可能でした。秀吉の子飼いの武将たちも似たような者がおり、福島正則は桶屋の倅ですし、小西行長も薬問屋の息子でしたから。
そういった意味では、当時の日本は「ジャパン・ドリーム」のような希望に満ちた世界だったのかも知れません。努力次第で大きく報われる可能性もあるわけです。
4-2.自分の利益のために動く「自己責任の時代」
しかし自由といっても、それに伴うリスクは自分で背負わなければならない時代でもありました。下克上で身分が上の者に挑み、逆に返り討ちにあってもそれは自分の責任ですし、他人に財産を奪われたとしても、それは自分の実力がないだけのことですね。
また出世することを夢見て出陣したのものの、戦いで逆にやられてしまっても文句は言えません。すべては自己責任なのですから。
逆をいえば強い者が正義なのです。だからこそ弱い立場にある者たちは寄り集まって権益を守ることになります。それが農民だと「惣村」と呼ばれる地域に根差した組織になりますし、同じ宗教を信仰する立場ですと「講」という組織になったわけですね。
4-3.下克上されることも、もちろん「自己責任」
ちなみに公家や守護大名など旧態勢力が恐れたのが、「下克上」でした。身分秩序があってこそ身が保たれる彼らにとっては、下克上こそが恐怖だったのです。
そもそも国を治める能力がないと判断されたからこそNOを突き付けられたわけであり、それを「下克上だ~!」と騒ぐのはお門違いも甚だしいといったところでしょうか。土岐氏がいい例でしょう。
一例を挙げれば、織田信長が松永久秀について語った「この老人は常人のできないことを三つもやってのけた大悪人だ。主君を殺したこと、大仏殿を焼いたこと、足利将軍を暗殺したこと。」という逸話も、江戸時代中期になって書かれた「常山紀談」に載っているだけですから、信長が語ったという事実はまったくないのですね。