日本の歴史昭和

アメリカ軍占領下の沖縄が日本に復帰した「沖縄返還」をわかりやすく解説

沖縄返還をめぐる日米両政府の交渉

1962年、ケネディ政権は沖縄を日本の一部であるとの考えを示します。一方、日本は高度経済成長で手に入れた経済力を生かして、沖縄への経済的関与を強めました。

事態が本格的に動き出すのは1965年。佐藤栄作首相の沖縄を訪問です。この時、佐藤首相は沖縄の日本本土復帰を目指すことを表明しました。沖縄県内で高まる反米感情などを踏まえ、アメリカは基地機能が維持されること条件に沖縄返還に前向きな姿勢を見せ始めます。

1967年11月の日米首脳会談において、沖縄を日本に返還することで両国が合意しました。交渉の過程でアメリカは有事の際に基地を自由に使用することや日本による費用負担などを求め、日本政府はこれに応じます。

ベトナム戦争によって財政が悪化していたアメリカのジョンソン政権としては、沖縄返還で新たな出費が生じる事態を回避したかったのです。

選挙で琉球政府の行政主席に選ばれた屋良朝苗

1968年、これまでアメリカによる任命制だった行政主席が初めて選挙でえらばれることになりました。立候補したのは保守系の西銘順治、革新系の屋良朝苗、琉球の独立を主張した野底武彦の3名です。

初の行政主席直接選挙で、近い将来実現する本土復帰を踏まえた選挙となります。保守系の西銘候補は日米両政府と強調した段階的復帰を主張したのに対し、屋良候補は即時無条件全面返還を掲げました。

日米両政府は段階的な復帰を主張する西銘候補を支援しますが、投票の結果、屋良朝苗が当選。行政主席となった屋良朝苗は日米両政府との交渉に苦しみます。屋良は沖縄が日本に復帰した時、沖縄県知事選挙に立候補して当選。復帰後初代の沖縄県知事となりました。

沖縄返還協定の調印と内容

1971年、日本とアメリカは沖縄返還協定に調印します。正式名称は、琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定。日本側は首相の佐藤栄作、アメリカ側はニクソン大統領が条約に調印します。

条約の前提として日米安全保障条約を堅持することや、沖縄の「核抜き・本土並み」返還などが合意されていました。

この協定で、アメリカは日本に沖縄の施政権を返還。それに対し、日本は沖縄にある在日アメリカ軍基地の使用権を引き続き認めることや、移転に関する費用の負担などを行うことが定められます。

アメリカ軍基地の全面撤退を求めていた屋良朝苗や復帰賛成派の期待を裏切る内容だったため、返還後も沖縄はアメリカ軍基地問題で苦慮することになりました。

沖縄に残されることになった広大なアメリカ軍基地

沖縄返還後も、アメリカ軍基地は沖縄に残されました。在日アメリカ軍は横田基地、横須賀基地、厚木基地、岩国基地、三沢基地など国内各地に駐留しています。

その中でも、沖縄県には多くのアメリカ軍基地が集中。県の面積の8%、沖縄本島の14%がアメリカ軍基地用地。沖縄には2万人を越えるアメリカ軍人・軍属とその家族、あわせて4万5千人弱が生活しており、県の政治・経済・治安に大きな影響を与え続けています。

本土に比べ、沖縄が大きすぎる負担をしているとの声は沖縄返還直後も、現在も変わりません。また、在日アメリカ軍人や軍属による犯罪や、容疑者が基地に逃げ込んでしまう問題に対して、沖縄ではたびたび抗議運動が起きています。

返還後の沖縄

image by PIXTA / 16630229

1972年、沖縄返還協定に基づき沖縄の施政権が日本に返還されました。四半世紀以上アメリカに統治された沖縄と日本の仕組みはかなり異なる部分があったため、制度の統合が急務となります。返還後、沖縄が日本の一部になったことを記念した国体や博覧会が相次いで開催され、首里城の復元も決まりました。しかし、普天間基地の返還をめぐる問題で沖縄と政府の意見対立が続いています。

日本への施政権の返還

沖縄の日本復帰が決定してから、復帰に向けての準備がスタートしました。日本政府が沖縄返還前に策定した「復帰対策要綱」には日本政府の沖縄県に対する施策や、日本の法律を沖縄で適用すること、国費留学生度、ハンセン病患者の保護、通貨交換のレート、沖縄開発庁の設置など246項目に及ぶ幅広い内容が盛り込まれます。

そして、1972年5月15日、沖縄全島にサイレンと汽笛が鳴り響き、沖縄が日本に復帰したことが告げられました。この日をもって琉球政府は消滅し、日本の沖縄県庁による統治が始まります。

6月25日、あらためて県知事・県議会議員の選挙が実施され、屋良朝苗が初代県知事になり44人の県議会議員が選出されました。また、交通ルールも変更され右車線走行から左車線走行へと切り替えられます。

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