豊臣氏の痕跡を消し去り、新たな大坂城を築く
豊臣氏滅亡直後の大坂は、「大坂藩」と新たに命名され、藩主には松平忠明が任命されました。彼は大坂の街の復興に尽力し、運河や堀を開削して復興に不可欠な水運や流通を整備しました。この頃に開削された大阪のシンボル「道頓堀」も忠明の頃に出来上がったものです。
忠明が転封したのち、大坂は幕府の直轄領となりますが、1620年、幕府はいよいよ大坂城の復興に着手します。建物群は消失したものの石垣などの土台部分は健在だった大坂城に新たに土盛りを施し、まるで豊臣氏大坂城を覆い隠すように築城していったのでした。
土をかぶせて嵩上げすると、更に城が巨大に見えますし、豊臣時代の痕跡を消し去ることもできるため、新しい大坂の主が徳川であるということを広くアピールすることにも繋がります。そして1629年、ついに徳川氏大坂城が完成。天守閣の大きさも豊臣氏のそれをはるかに上回る巨大さだったとのこと。
余談ですが、徳川幕府はよくこういった手法を用いていますね。徳川の権威を誇示するために、わざわざ秀吉の墓を暴いてみたり、徳川氏にとって都合が良いように歴史書を改竄してみたりと、とにかく姑息ともいえるほどに権威付けに躍起になっているところが見受けられるのです。
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徳川幕府の西の拠点となった大坂城
徳川幕府によって復興された大坂城は、まさに幕府の西の牙城ともいうべき存在となりました。同時期に大坂城を囲むかのように尼崎城、明石城、高槻城、淀城などが新たに築城、修築され、西国の外様大名たちに対する監視を厳しくしようとする狙いがあったようです。
それだけ重要な城であるため、歴代の大坂城代(将軍の代わりに大坂城を治める役目)には譜代大名の中でも最も信頼のおける人物が就任していました。将来、幕閣筆頭(幕府中枢)の老中に就くためには、必ず大坂城代になっておかなければならない。といわれるほどの要職だったのです。
江戸時代を通じて大火や事故にたびたび見舞われた城でもあり、17世紀中頃には煙硝の爆発事故や、落雷による天守閣消失などが続き、以後は江戸城と同じく天守閣を持たない城となりました。
幕末動乱期の開城と、その後の大坂城
260年間、平和な時代を享受してきた日本も、幕末期ともなると各地でキナ臭い匂いが立ち込めてきました。大坂城も例外ではなく、二度のわたる長州征討では本営地となり、第14代将軍徳川家茂は大坂城で死去しています。
1868年、王政復古の大号令により京都を追われた最後の将軍慶喜は、この大坂城に拠って新政府軍に対する前線基地としました。ところが鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍の敗報に接するや、慶喜は海路江戸へ向けて逃げ出し、空き家同然となった大坂城は難なく新政府軍の手に墜ちたのです。
やがて明治維新以降は、「大坂」は「大阪」と名を変えます。「坂という字は土に還る」という意味があり、それを忌み嫌ったのだとも。ちなみに大坂城は陸軍の用地となり、大阪陸軍造兵廠が置かれました。
そして昭和6年、大坂城の公園化と復興天守が完成し、新たな大阪市民たちの憩いの場となりました。ところがその後の太平洋戦争勃発による空襲で大阪市街は甚大な被害を受け、大坂城もまた多くの現存櫓を焼失しました。しかし復興天守だけはなんとか戦災を免れて現在に至っているのです。
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