室町時代戦国時代日本の歴史

5分でわかる戦国時代のお城での暮らし!実は住んでなかった?わかりやすく解説

2-2.江戸時代の城とまったくの別物?土でできた城とは

こういった「麓の居館」と「詰めの城」の形態は戦国大名のみならず、家臣たちや国人領主、土豪レベルの居館にもみられ、全国に5万以上存在するといわれる城のうち、半数以上がこういった「詰めの城」の形態となっています。

言い換えれば大名同士の戦いだけでなく、中流武士層の間でも絶えず争い(水争いや山林争いなど)は起こっており、村や集落単位での戦いも日常的であったという事実があるのです。

国人・土豪クラスの標準的な詰城の画像

「城」という字は「土から成る」と書きますが、まさにその通りで、山頂を平らに均して防衛拠点とし、周りを柵で囲めばそれだけで「城」の完成となるのですね。後世の城と比べればまったく違うのです。

2-3.山の上には普段誰がいた?

大名や領主たちが住んでいた居館と対になる「詰めの城」ですが、普段は使われることはありません。では山の上には誰がいたのでしょうか?

大切な防御拠点になる場所ですから、もちろん番をする兵は多少なりとも常駐していたでしょうし、基本的に土を削って盛って造られた城なので、大雨が降れば土が流れ出して崩れてしまいます。そういった時に城をメンテナンスする人間もいたでしょう。

基本的に「詰めの城」には、籠城した場合に城主が所在するための殿舎や、兵たちが寝起きするための掘立(ほったて)小屋などがありました。また多くの城では井戸がなかったので、雨水を貯めたり、沢の水を引いていたものと考えられています。

甲斐武田氏の詰めの城【要害山城】

 

1519年、甲斐の武田信虎が躑躅ヶ崎館へ本拠地を移した際に、館とセットになるように造られた城です。

今川氏に懐深くまで攻められた際に、信虎は夫人をこの要害山城へ避難させ、この時生まれた男子がのちの武田信玄でした。

武田氏の詰めの城ということで、普請は非常に大規模になっていて、段々になった曲輪跡や門跡、土塁や石塁などが現存しており、その要害堅固さを感じることができますね。

※曲輪とは、平らに均した防御拠点となる場所で、そこを柵や塀などで囲って敵を防いでいました。特に山城の場合は山の斜面を垂直に削って、敵兵が登ってこられないようにした切岸(きりぎし)などと複合させて防御力を高めています。

3.山城を築けない場合にはどうやって防御をしていたか?

本丸跡(高屋築山古墳を流用している)
By 投稿者が撮影 – ブレイズマン (talk) 08:56, 24 June 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, Link

居館のすぐ近くに適当な山があれば城を築けますが、そうでなかった場合はいったいどのようにしたのでしょうか?たとえば山がほとんど存在していない関東平野や大阪平野の場合、地形的に大いに不利になりますし、防御も心許なくなりますよね。

3-1.防御のために大規模化していく平地の城

先ほども述べた通り、日本の城は「平地にある居館」から発展していったものですが、どうしても地形的に不利な場合、その城を大規模化させていくことも、ひとつの方法でした。

好例を挙げるならば、小田原北条氏の本拠地「小田原城」が代表例でしょう。北条氏が奪取した時点では、居館に毛が生えた程度の規模でしたが、代を重ねるごとに規模を拡張していき、北条氏康の代には城下町をすべて城として取り込んだ「惣構え(そうがまえ)」という形態にまで発展していきました。

中国の城郭都市に見られるような、街をすべて城壁で囲んでしまったようなイメージで良いと思います。ただし小田原城の場合は、「土塁」といわれる巨大な土の壁でした。たとえ大軍に囲まれたとしても、食糧に困らず、容易に落城しなかったのですね。

実はこういった「惣構え」の城は全国に点在していて、有名なお城でいえば、有岡城、大和郡山城、伏見城などが挙げられます。京都に現存する御土居(おどい)に至っては、当時の京都市街をすっぽり覆う巨大土塁だったそうです。

御土居の画像はこちら

3-2.平地にあっても防御の工夫が施された城

平地にある城でも、工夫次第で防御力を高めることができました。それは豊富な水を利用すること。川沿いの急峻な河岸段丘(かがんだんきゅう)の崖を利用したり、川の水を引き込んで堀代わりにすることによって格段に守りやすくしたのですね。

また沼地や湿地を利用して敵の行動を制限したり、足を止めることも有効だとされていました。

河岸段丘の崖を利用した城として有名なのが真田氏の上田城。巧みに川の流れを引き込み、徳川軍の度重なる攻撃をも寄せ付けませんでした。

当時の崖が残る「尼ヶ淵」ではその様子がよくわかります。また、川と崖を利用した城としては長篠の合戦の舞台の一つでもあった長篠城も好例ですね。

上田城尼ヶ淵の画像はこちら

埼玉県行田市にある忍城は沼や湿地帯をうまく利用した城として有名。豊臣の大軍に攻められた際に、少人数ながら地形を巧みに生かして抗戦し、ついに落城することはありませんでした。

3-3.古墳までお城として活用された?

近畿地方ではもっと変わった城がありますね。大阪府羽曳野市にある高屋城はなんと本丸が前方後円墳になっています。というよりも、前方後円墳の上に城を造ったというべきでしょうか。

現地となる高屋築山古墳は水堀で囲まれており、ちょうど防御にはうってつけの地形だったからなんですね。

また、三好氏や細川氏、畠山氏などの争乱の場となっていた関西では、あの世界遺産「仁徳天皇陵」ですら城として利用されていたそうです。現在は立ち入り禁止になっているため確認はできませんが、おそらく城郭として利用するために土が削られて、大きく改変されているのでしょうね。

仁徳天皇陵の画像はこちら

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