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軍艦島(端島)をご存じ?長崎の海に浮かぶ歴史遺産を詳しく解説!

かつて長崎市に、東京23区内より人口密度が高い最先端の町がありました。その名も「端島」。島の外観から「軍艦島」の別名で呼ばれる人工島です。昭和30年代、世界のエネルギー資源の主役が石炭だったころ、軍艦島には炭鉱で働く人々が暮らしており、東京や大阪の都市部に暮らす人たちより豊かで最先端の生活がありました。現在は無人島となりましたが、2015年に世界遺産に登録されて再び注目を集めるようになった軍艦島。今回の記事では、そんな軍艦島の歩みについて詳しく解説いたします。

軍艦島とは何?海洋に突如現れる「軍艦」のような島

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長崎港の南西、18キロメートルほど離れた海の上に浮かぶ巨大軍艦のような姿をした島、軍艦島。現在は無人島ですが、島内のいたるところにコンクリート製の建物がひしめき、まるでSFの世界に迷い込んだかのような雰囲気を醸し出しています。いったいどんな島なのか、まずは軍艦島の正体と概要について見ていきましょう。

軍艦の正体は「海底炭鉱人工島」

軍艦島の正式名称は「端島(はしま)」。長崎半島から西に4.5キロメートルほど離れた場所にあります。

ここはもともと島ではなく、岩礁が広がっているだけの場所でした。そこを埋め立てて造ったのが端島です。

2キロメートルほど離れた場所に「高島」という島があり、江戸時代の頃から、周辺の海底に良質な石炭が眠っていることが分かっていました。幕末から明治にかけて、イギリス人技師の支援を得るなどしながら蒸気機関による採掘を開始。この技術はやがて端島に受け継がれていきました。

海底に眠る黒いダイヤ。その上に島を築き、地下へ地下へと巨大なトンネルを掘って採掘。そして島の上には炭鉱で働く人たちの家族が暮らす巨大な町が形成されていったのです。

明治から大正、昭和へ。発展を遂げる日本を支えた石炭の採掘。賑わいを見せた多くの炭鉱の町と同じように、端島にも豊かな暮らしが作られていきました。

埋立島であるため、島の周囲は石塀でぐるりと囲まれており、上から見ると細長い楕円形。中央に高い建物が立ち並んでいて、大正時代に長崎造船所で製造された戦艦「土佐」に似ていると言われるようになり「軍艦島」と呼ばれるようになったのだそうです。

1960年代の最先端の建物が残る島

現存する軍艦島の面積はおよそ0.063平方キロメートル。甲子園球場の1.5倍くらいの広さです。

もちろん、最初から現在のような形をしていたわけではなく、明治時代から少しずつ埋め立て面積は広くなっていったようですが、それでも1920年代には3,000人を超える人が暮らしてました。

1916年(大正5年)には日本初の鉄筋コンクリート造りの4階建てアパートが建てられ(後に増築されて7階建てに)、その後もたくさんの高層建造物が次々と建てられていったのだそうです。

1960年代には人口が5,000人に達し、繁栄は最高潮に。島内には学校や公衆浴場、寺院や神社、パチンコ屋や雀荘、スナックなども。住民たちは当時はまだ珍しかった家電や水洗式トイレなどを使用し、小さな人工島の中には最先端の暮らしがありました。

実写版映画『進撃の巨人』のロケ地にも

炭鉱が閉鎖された後、人々は島を離れ、軍艦島は無人島になりました。

しかし建物が壊されることはなく、そのままの状態。廃墟と化した島は何年もの間放置された状態になっていたのです。

そして2009年から、島への上陸が可能に。映画や音楽プロモーションビデオのロケ地に使われるようになると「現実の町とは思えない!」「まるでSF」と人気に火が付きます。上陸・見学ツアーが企画されるなど、軍艦島は一転、廃墟ファンが集まる観光スポットとなっていったのです。

有名なところでは、2009年発売のB’zの『MY LONELY TOWN』という曲のミュージックビデオの撮影場所に。2時間サスペンスドラマのロケ地になったことも多々ありました。

軍艦島の人気を不動のものにしたのが、2015年公開の映画『進撃の巨人』。軍艦島のシーンはそれほど多くはありませんが、人気漫画の実写化で人気俳優たちが一堂に会す話題の映画ということもあり、軍艦島のロケシーンは大きな話題となりました。

2015年、軍艦島は「明治日本の産業革命遺産」の一部として、ユネスコ世界文化遺産に登録。文化遺産として維持していかなければならないため、建物の老朽や崩壊に注意しながら……ということにはなりそうですが、これからも多くの人が軍艦島を訪れ、歴史の流れに思いを馳せることになるでしょう。

軍艦島の歴史とは?近代化日本を支えた海底炭鉱で働く人々

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現代では長崎県の観光名所として、地元の海運業者によるクルーズ船の運航など、その魅力を間近で感じられるようになった軍艦島。しかしもともとは、炭坑と、そこで働く人たちのための町があった人工島でした。その歴史は長く、19世紀初頭から。近代日本の発展において、石炭がどれほど重要な役割を担っていたかうかがい知ることができます。軍艦島がどのような歴史をたどってきたのか、詳しく見ていきましょう。

始まりは19世紀・石炭の発見

江戸時代の終わりごろ、現在の長崎半島周辺の村々の漁民たちは漁の合間にたびたび、地表に露出している石炭を掘り、町で売りさばいていたのだそうです。

掘る、といっても大掛かりな装置を使った採掘ではなく、簡単な道具で取り出せる程度のもの。量もそれほど多くはありませんでしたが、とにかく江戸時代には既に、このあたりに石炭があることはわかっていました。

明治に入ってから、石炭の採掘を試みた業者が何社かありましたが、費用や天候、地形などの影響でなかなかうまくいかず、本格的な採掘がはじまるのは明治20年を過ぎてからということになります。36メートルほどの竪坑(たてこう:鉱山や炭鉱などで運搬や換気目的で設けられた、地表から坑内へ通じるトンネル・坑道施設)が完成し、いよいよ本格的な石炭採掘がはじまりました。

1890年(明治23年)、高島の炭鉱や長崎造船所などを運営する三菱社が端島の炭鉱を買い取り、炭鉱はますます賑わいを見せるようになります。

労働者たちは島に閉じ込められ、故郷を思いながら重労働を強いられる生活が続きますが、飲み水が供給され、家族が暮らせる住宅が整備されるなど、彼らを取り巻く環境は日に日に変化していきました。

炭鉱がもたらす豊かな暮らし

「軍艦島」という呼び名が付けられたのは、大正時代に入ってからだといわれています。

前に述べた「日本初の鉄筋コンクリート造りのアパート」は1916年(大正5年)に建てられたもの。島の外観を見た新聞社の記者が「まるで軍艦のようだ」と報じたこともあるとか。本土でも鉄筋の建物はまだまだ珍しかったため、高層建造物が聳え立つ小さな島が異質なものに見えたのかもしれません。

また、島にはボイラー用の巨大な煙突があり、そこからもくもくと黒煙が上がっていました。その様子はまさしく「軍艦」。多くの人が、長崎造船所で造られていた戦艦「土佐」を想像したことでしょう。

1917年には海底ケーブルが整備され、送電がスタート。島の暮らしはますます豊かになっていきます。

昭和に入ると、竪坑の深さは600メートルを超え、日本の炭鉱で最も深い位置に達しました。

第二次世界大戦の直後は一時、労働者が島から離れるなど人口の減少がみられましたが、石炭の需要が高まるにつれ、労働者が増え始めます。最盛期には狭い島内に5,000人を超える人がいたといわれており、住宅難に。重なり合うように高層アパートが建てられていきました。

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