室町時代戦国時代日本の歴史

5分でわかる戦国時代のお城での暮らし!実は住んでなかった?わかりやすく解説

4.権力のシンボル的存在となった城

image by PIXTA / 29386786

自衛のために、または戦いに勝つために、どんな方法を用いてでも築かれた戦国時代の城ですが、やがて戦いが終息していくとともに「戦いの城」だけでなく「権力や統治の城」という側面も持ち始めてきました。壮麗な外観の城を築くことで、権力者が自らの力を誇示するための存在と化していったのです。

4-1.常に築城術の最先端を走っていた織田信長

城郭の歴史を見ていく上で欠かせないのが、やはり織田信長の存在でしょう。彼のすごいところは、自らは高い場所に位置し、家臣はその麓に集めて住まわせたところでした。そうすることによって上下関係がはっきりわかる形で示したのですね。

小牧山城を皮切りに、岐阜城、安土城と居城を移していくわけですが、見上げた先に信長が存在する天守が常にあり、家臣たちの上に君臨していたのです。

地位の保身に必死になっていたかつての守護大名たちと違い、信長は自らを神格化することで「誰が一番偉いのか?」を無言のうちに示していたといえるでしょう。

高く大きな天守閣は、いつしか権力のシンボルというべきものになり、大坂城や江戸城などに継承されていくのです。

4-2.一国一城令によって、ほとんどの城が消滅する

徳川氏の時代となり豊臣氏が滅んだ矢先。日本の城郭史にとって一大事件が起こりました。それが「元和の一国一城令」といわれる1615年に出された法令でした。

厳密には「一つの藩につき一城のみ許される」という形で、藩主の居城以外は全部壊して廃城とするように。というものでした。これによって、日本に存在していたほとんどの城が破却され、新たな戦乱の芽を摘み取ったものだったのです。

たくさんあった山城も多くは土に還り、平地にあった城もどんどん埋められていきました。平和な時代には、すでに城は無用の長物となってしまったのですね。

頂点にまで発展した日本の築城技術ですが、その後は城がほとんど造られなくなったことによって衰退の道を辿りました。

かつては穴太衆(あのうしゅう)など石垣築造のプロフェッショナルなども存在していましたが、江戸時代には築城以外の分野で活路を見出すことになったのです。

5.お城での暮らしはどんなものだった?

image by PIXTA / 15653026

江戸時代の殿様の暮らしについては時代劇などで何となく想像がつきそうですが、戦国時代ではどのような暮らしをしていたのでしょうか。少し戦国人のお城ライフをのぞいてみたいと思います。

5-1.規則正しい生活がモットー

戦国大名クラスと、ただの城主クラスとでは生活様式が違う部分もありましたが、あくまで一般的な姿として説明しますね。

起床時間はかなり早く午前4~5時くらいには起床していたようです。夕方になり暗くなれば執務できなくなってしまうので、とにかく前倒しで仕事をする傾向にあったようですね。

朝6時頃には家臣たちが城へ出仕してきますから、日中の明るい時間は書類や訴訟の決済、または領内の巡検などに費やされました。定期的に家臣たちを集めて会議なども行われていたようです。

夕刻18時頃には仕事を終えて閉門されますが、酒宴という名の懇親会や接待などもたびたび催されていました。播磨守護赤松氏の館跡からは大量の土師器が出土しているように、飲み会で親睦を図るという手法は今も昔も同じだったようですね。

5-2.意外に食材豊富だった食膳

城主たちの食事に関しては、意外にバラエティー豊かだったのではないでしょうか。米や野菜以外にイノシシ、鳥、魚などが食膳に並び、デザートが付くこともあったそうです。蜂蜜や葛きりなどもポピュラーな甘味だったわけですね。

ただし調味料がまだ発達していない時代のこと、現代で普通に使われている醤油などもありません。今の味付けとは若干違うのかも知れませんね。塩や味噌、魚醤などで味付けしていました。

1582年に明智光秀が徳川家康を饗応した際のレシピが現存していますが、並んでいる料理の豪華さに驚きです。山海の珍味とまでいかなくても、様々な食材を工夫して調理していたことがうかがえます。

江戸時代になると肉類がほとんど消費されないようになったため、栄養バランスは極度に悪くなっていきました。殿様であっても脚気などの病気に悩まされることが多くなったそうです。

次のページを読む
1 2 3 4
Share:
明石則実