室町時代戦国時代日本の歴史

美貌にして勇敢な「甲斐姫」戦国最強の姫君の生涯を徹底解説

城代が急死!しかも水攻め!いったいどうすれば?

天正18年6月4日(1590年7月5日)、豊臣方の石田三成(いしだみつなり)の軍勢2万3千が、忍城を取り囲みました。城に籠城する成田方は、領民を含めて3千人ほど。どう見ても劣勢は明らかでした。

しかし、忍城は関東七名城のひとつに数えられる難攻不落の城。そこで三成は、主・秀吉がかつて備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)を攻めたときと同じように、水攻めにすることを選んだのです。

さて、一方の忍城内ですが、とんでもない事態が起きていました。城代の成田泰季が、やはりと言うべきか、病死してしまったのです。やむなく、その息子・長親(ながちか)が総大将となり、甲斐姫はそのサポート役となって豊臣方に相対することとなりました。

甲斐姫大活躍!忍城の戦い

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石田三成は忍城を水攻めにしましたが、どうにもうまく行きません。そうこうするうちに豊臣方の援軍が到着し、甲斐姫はなんと自ら出陣して敵を迎え撃ったのです。その活躍はまさに無双で、敵将を何人も仕留めて相手を退却させるほどだったと言われています。彼女の武勇が発揮された戦いの様子は、どんなものだったのでしょうか。

三成の水攻め

三成は突貫工事で「石田堤(いしだづつみ)」なる堤防を築き、川の水を引き込んで城の周りを水で満たしてしまいました。

これでは、忍城の面々は城から出ることもできず、ただ時間が経つのと兵糧が尽きるのを待つしかありません。

しかし、ただじっと滅びを待っているような成田方の人々ではありませんでした。

夜中にこっそりと城を抜け出し、堤の一部を破壊したのです。折からの大雨にも助けられ、大水は城ではなく三成の軍勢を押し流し、大きなダメージを与えました。

三成の思わぬ苦戦に、豊臣方は続々と援軍を派遣してきます。

どんどん現れる敵を前に、城代の成田長親は出陣を決意しますが、それを押しとどめたのが甲斐姫でした。

甲斐姫の出陣と大活躍

「私が参ります」と、甲斐姫は自ら武装し、成田家伝来の秘蔵の名刀「浪切(なみきり)」を手に、200騎を率いて出撃していったのです。

その反撃は鮮やかで、敵兵をひとりも城内に入れることはありませんでした。姫自身、敵兵の首級をいくつも挙げたと言われています。まさに無双の姫君。甲斐姫の奮闘により、敵はいったん退却していきました。

しかし、秀吉軍は大軍ですから、長引けば成田勢が劣勢になるのは当然のことでした。

城の別の場所にも兵力を割かねばならず、徐々に押されていく成田勢を目にした甲斐姫は、再び武器を取って出撃します。この時は敵将のひとりを弓矢で仕留めたと伝わっていますよ。戦場に出ればかならず敵を倒す姫を見て、成田勢の士気はいっこうに衰えることを知りませんでした。

武装して堂々と城を去る

忍城の面々は籠城戦で奮戦を続けていましたが、この間に、小田原城の北条氏直(ほうじょううじなお)が先に降伏し、小田原城は開城の運びとなりました。

それでも忍城は戦いをやめようとはしません。甲斐姫の存在が大きかったはずです。

このため、小田原城内におり先に降伏した成田氏長が説得に当たることとなり、これでようやく忍城は開城することになったのでした。7月14日(8月13日)のことでした。

城を去る甲斐姫は、異母妹たちと甲冑を身に着けて馬に乗り、悠々と出て行ったそうです。1ヶ月以上の籠城戦を戦い抜いた相手が、まさかこのような美貌の姫君だとは、豊臣方も思いもよらなかったかもしれませんね。

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