中国の歴史

中国を大きく変えたアヘン戦争はなぜ起きた?背景・経緯・結果をわかりやすく解説

アジアにおける植民地と清との関わり

もともと、明の時代から東南アジアとは鎖国にも関わらず、中国南部との交易がおこなわれていました。当初進出していたスペイン、ポルトガルは後退していきました。しかし、代わりに東南アジア諸国に進出したイギリス、フランス、オランダはその東南アジア諸国を植民地化して、そこから中国と交易をしたのです。当時の独立国はタイのみとなっていました。フランスが進出したシナイ半島のベトナム北部などは清の領土にもなっており、清は植民地化を認めず、小競り合いが生じていたのです。

中国を変えた戦いアヘン戦争はこうして起こった

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アヘン戦争では、中国南部のアモイなどに停泊していたイギリスの無敵艦隊を上海などの沿岸地域に派遣し、それぞれの街を急襲し、兵士を上陸させました。近代兵器の銃器を持った兵士たちが中国に上陸し、北京に向けて進出すると清軍はあっけなく敗北し、清王朝はイギリスに降服したのです。

イギリスの三角貿易がアヘン戦争のきっかけ

もともとイギリスは、インドから棉花や綿糸を輸入し、それを原材料として綿製品を大量生産して、中国に輸出していました。一方、中国からは、中国茶、絹織物や陶器などを輸入していたのです。特に中国茶は当時のイギリス国内で需要が大きく、イギリスの輸入量も多かったと言われています。しかし、清は、そのような交易に対して、宰相の林則徐が、鎖国を理由に取り締まりを強化し、交易は広州に限定してしまいました。当然、イギリスの綿製品は売れなくなり、当時の通貨としての銀がイギリスから中国に大量に流入するようになったのです。

イギリスは、対抗措置として当時のインドで生産されていたアヘンを清の沿岸地域に大量に密輸出し、その代金代わりに中国茶などを輸入しました。当時、アヘンは高価で取引され、中国の輸入量も多かったことから、今度は中国からイギリスに銀が大量に流出するようになったのです。これを三角貿易といいます。

現在のアメリカと中国の貿易戦争のようですね。

清の沿岸地域ではアヘン中毒が蔓延

このイギリスのアヘン輸出によって、清の沿岸地域ではアヘン中毒者が続出し、生産力は低下し、さらに銀も流出すると事態になりました。清の沿岸地帯の街は、アヘン中毒者で溢れていたのです。清王朝は、宰相の林則徐に命じて、沿岸地域の警備を強化してアヘンを押収し、処分させます。その結果、三角貿易もうまくいかなくなったイギリスは、ついに武力に訴えて交易をおこなう決定をして、ついに清とのアヘン戦争が起こったのです。

アヘン戦争はすぐに勝負がついた

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アヘン戦争は、1839年にイギリスと清が九竜沖、川鼻などでの海戦をおこなったことから幕を開け、清の船団は壊滅させられます。1840年には、イギリスは東インド会社の武装汽船団や兵士たちを中国に移動させ、その近代兵器と訓練された軍事力によって、清を圧倒しました。そのため、清はすぐに降伏してしまったのです。

清には、旧態依然とした兵器しかなく、イギリスの近代的な銃火器に対抗することはできませんでした。そのため、清は、1841年には一時賠償金を支払い、川鼻条約を結んで停戦をします。しかし、イギリス軍が引き上げると、清はその条約を拒否して再び鎖国しようとしたのです。そのため、イギリス軍は再び軍事行動をおこない、沿岸地域を次々と制圧していきました。その結果、清は戦意を無くし、1842年8月に両国は南京条約に調印して、戦争は終わったのです。

中国を変えた戦いアヘン戦争の結果

アヘン戦争に敗北した清王朝は、イギリスに香港島などを割譲するとともに、広東、福建、浙江など(後に者杯、福州も)での交易を認め、多額の賠償金支払いも行なわれました。さらに、日本が日米修好通商条約で結んだように不平等条約を結ばされたのです。

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