中国の歴史

中国を大きく変えたアヘン戦争はなぜ起きた?背景・経緯・結果をわかりやすく解説

欧米諸国の中国大陸への進出が始まった

清がイギリスに敗れたことで、フランスなどの欧米諸国は中国大陸への進出を開始しました。それまでは、清王朝の威光によって、欧米諸国は中国大陸に植民地化をおこなっていなかったのです。しかし、清が強くないことを知ると、こぞって植民地化に向けて進出し始めました。

アロー戦争敗北と太平天国の反乱によって清は統治能力を失っていく

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清王朝の弱体化が明らかになると、それまで押さえつけられてきた漢民族が独自の漢民族の国を打ち立てようとする動きが出てきます。1851年には太平天国の乱という反乱が起きました。アヘン戦争後、中国大陸に進出したフランスは、イギリスとともに新王朝に対してアロー戦争を起こし、清に勝利すると言う事態も生じたのです。清王朝は、アロー戦争でフランスにも東南アジアでの植民地化を認め、イギリスと同様フランスとも不平等条約を結びました。

それと同時に、イギリス、フランスの圧倒的な武力を借りて、太平天国の乱を鎮めるようにしたのです。これによって、清王朝はもはや自国内の漢民族を統制できず、反乱が起これば王朝は自力で抑えることができないことも明らかになりました。

清王朝の落日は早かった

それは、孫文などの革命思想につながり、1999年には北清事変が起きたのです。北清事変は、もともと義和団事件と言って、漢民族が北方民族の清王朝を倒そうという事件でしたが、北京の外国公館を取り囲む騒ぎになりました。清政府は、義和団を利用して外国勢を北京から排除しようとしましたが、日本を含む外国勢力8ヵ国は清政府に反撃を加え、清王朝は大敗を喫します。賠償金と、外国勢力の北京への駐兵を認めざるを得なくなったのです。この北清事変事件は、チャールトン・ヘストン主演の映画「北京の55日」で描かれています。

日本の鎖国にも影響した

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アヘン戦争に負けたことで、それまで鎖国を貫き、外国船打ち払い令などを出していた日本の徳川幕府にも大きな衝撃となり、急いで打ち払い令を緩和するようになりました。しかし、ついにはペリーの黒船の来航により、開国させられ、不平等条約を結ぶ事態になったのです。

清の近代化策は表面だけだった

清は、西太后の時代に入ると、宰相になった李鴻章などが近代化策をとろうとしたものの、技術だけ取り入れて運用技術や練兵などをおこないませんでした。そのため、弱体化に歯止めをかけることができなかったのです。清王朝の内部では、保守派と改革派が勢力争いをおこない、現実的な近代化はほとんど進んでいませんでした。

漢民族の革命運動が高まる

その間に、孫文などの革命運動指導者が生まれるようになります。北清事変で痛い目にあった清も、ついに近代化に取り組むようになりましたが、「時すでに遅し」でした。1911年には辛亥革命によって清王朝は倒され、中国大陸は混乱の時代を迎えるようになったのです。

 

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