ヨーロッパの歴史ロシアロシア革命ロマノフ朝

400年続いたロマノフ王朝を倒しソ連を生み出した「ロシア革命」をわかりやすく解説

第一次世界大戦中に起きた第二次ロシア革命

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改革が不十分で、国内に混乱の種を宿したままロシア帝国は第一次世界大戦に参加します。第一次世界大戦は列強が真正面から衝突する総力戦となりました。国力が弱いロシアはドイツとのタンネンベルクの戦いに敗れたのち、ドイツ軍に押し込まれます。相次ぐ敗北で生活が苦しくなった民衆は、ついに皇帝政府を打倒する革命を起こしました。

第一次世界大戦への参戦と収まらない民衆の不満

日露戦争に敗れ、東アジアでの勢力拡大ができなくなったロシアは、再びバルカン半島・トルコ方面に目を向けます。バルカン半島にあったセルビアなどの国々はロシアと同じスラブ系民族の国です。ロシアは、スラブ民族の連帯を訴えるパン=スラブ主義を掲げてバルカン半島情勢に介入しました。

1914年、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子がセルビア人に暗殺されるサラエボ事件が勃発。オーストリアはセルビアに宣戦を布告します。ロシアはセルビア支援のため総動員令を発布し、オーストリアとその同盟国であるドイツに対して宣戦布告し第一次世界大戦がはじまりました。

戦いが始まってまもなく、ロシア軍は1914年8月のタンネンベルクの戦いでドイツ軍に大敗します。この敗北はロシア民衆の生活を圧迫し、国民の不満と怒りは戦争を続ける皇帝政府に向けられました。

二月革命で帝政が崩壊。臨時政府とソビエトの二重権力時代が到来した

第一次世界大戦に参加したロシアはドイツ軍に敗北を重ね、国土の多くを占領されます。それにより国内の食糧不足や燃料不足が深刻化。さらには物価の騰貴ももたらし、国民生活は苦しくなりました。

1917年、ロシア暦で2月、グレゴリオ暦で3月に首都ペトログラードで大規模なストライキとデモが起きます。特に女子労働者の食料を要求するデモがきっかけとなってペトログラード市全体がゼネスト状態となりました。これが二月革命です。

この民衆蜂起の前に皇帝ロマノフ2世は退位を宣言。ロマノフ朝の専制政治は終わりを告げました。二月革命後、ブルジョアを中心とする臨時政府が樹立されます。その一方、各地で労働者や農民がソビエトを結成。戦争を止めようとしない臨時政府に対抗する権力を作り上げました。こうして、ロシアは臨時政府とソビエトという二重権力の時代を迎えます。

レーニン率いるボリシェヴィキの勢力拡大

二月革命の知らせを聞いたボリシェヴィキ(のちのロシア共産党)の指導者レーニンは、首都ペトログラードに舞い戻り四月テーゼを発表します。レーニンは二重権力を解消し、すべての権力をソビエトに集めるべきだと主張しました。

しかし、このころボリシェヴィキの力はまだ弱く、ソビエト内で主導権を握ることができません。臨時政府の首相となったケレンスキーはボリシェヴィキが行った臨時政府弾圧デモを武力で鎮圧。レーニンらは国外に逃れました。

この混乱をチャンスと見た帝政派のコルニーロフ将軍が反乱を起こすと、臨時政府は反乱鎮圧の力がなかったのでボリシェヴィキの手を借りざるを得なくなります。これをきっかけにボリシェヴィキの発言力が増大。レーニンも帰国します。

十月革命でレーニン率いるボリシェヴィキが臨時政府を打倒

1917年10月、臨時政府はいまだに第一次世界大戦から離脱せず、戦争は継続していました。力を増したレーニン率いるボリシェヴィキは戦争を止めようとしない臨時政府を武力で打倒します。臨時政府首相のケレンスキーは政権を放棄して国外に逃亡しました。

この革命を十月革命(ロシア暦)または十一月革命(グレゴリオ暦)といいます。レーニンは直ちに第二回全ロシア=ソビエト会議を開催。ソビエトがすべての権力を握ったことを宣言しました。ソビエト政権(ソ連)は各国政府に対して平和の布告を発し、即時に講和することを呼びかけます。この布告でソビエト政権は、無併合・無賠償・民族自決を原則とした講和を訴えました。交戦中だったドイツは停戦交渉に応じブレスト=リトフスク条約を締結します。

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