室町時代戦国時代日本の歴史

秀吉単独による中国大返し。そのトリックとは一体?

中国大返しは秀吉及びその重臣少数で騎馬による移動だった

備中高松城の兵糧攻めの場合、軍隊は取り囲むだけで動かなくてもよく、実際に戦闘状態にないため、兵力が削がれることがありませんでした。そのため、秀吉は兵を動かすことなく、自らの影武者をおいて、一部の重臣たちが、騎馬で移動したのです。もちろん行軍されたとする所々に語り師を配置して軍勢の移動の噂を立てさせることで中国大返しが既成事実にもなります。そして日毎に天候や行軍したときに想定されることを道中に配備された語り師に記録させることで、行軍中の状況の辻褄を合わせたのです。
毛利が追随できないと思われる距離まで移動した時点で伝書鳩を使って、備中高松城の兵隊を解散させ、山崎へ到着するところで高い給金で、兵隊を雇い頭数だけで圧倒するようにします。そうすることで明智軍に対しては目の前の大軍が中国大返しによるものだと吹聴させることで精神的にプレッシャーを与えることになったでしょう。

毛利は追撃しなかったのではなく、追撃できなかった

本能寺の変後もしばらく戦闘が続く備中高松城周囲では、秀吉の影武者及び、その兵隊が給金により召集され続けて、滞在していただけであり、秀吉から合図を受ければ一斉に解散しました。そして毛利に対しては本能寺の変により、明智軍と戦うために大軍が強行移動したと伝えられたことにより、現地で解散した個々の兵は、武装解除すればそれ以上疑われることはありませんでした。 毛利側からすれば、追撃できなかったことになりますが、毛利家の名誉のためにあえて追撃しなかったことにされたのです。

秀吉軍が突然いなくなった時点で、毛利輝元の叔父に当たる吉川元春が秀吉軍追撃を訴えるも、元春の弟の小早川隆景が将来の毛利家の安泰のために、守備に徹して追撃しないことを説得したことにしたのでしょう。

山崎の戦いの前に、兵は招集された

山崎の戦いでは、中国大返しによって長距離を行軍した兵隊ではなく、元気で活力のある兵隊が新たに招集されたのです。招集の際も本能寺の変を知らされず、これから戦う相手も明智軍であることを知らされていない、危険な戦地での戦闘がなく、それでいて給金は相場より高いとされた触れ込みで兵隊は集まってきました。それにより短期間で、兵隊の頭数を明智光秀の兵隊の倍以上揃えることが可能になりました。秀吉は数で光秀を圧倒し、さらにこれらの軍隊が、中国大返しを成し遂げた驚異的な強力な体力を備えた軍隊とすることで、相手の戦闘意欲を喪失させる心理戦に出たのです。

中国大返しは秀吉による天下統一に向けての情報戦だった

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本能寺の変に向けて秀吉は中国大返しを演出しましたが、それは山崎の戦いにおける明智光秀への心理戦のみならず、その後の合戦において、秀吉軍の威力を世に知らしめ、天下統一に向けて秀吉の情報戦として活用されました。超人的なエピソードを構築することは今の時代においても勝ち残る方法の一つと言えるでしょう。

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