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5分でわかる秀吉の妻「北政所(寧々)」の生涯ー子供や性格は?わかりやすく解説

3-2.寧々関白の妻となる

寧々は、関白の政庁とされる聚楽第に住んだようです。そうして、公家たちの心を掴み信頼を得て、ファーストレディとしての役目を果たしました。秀吉が関白になった裏で、寧々の位もしだいに上がり最高位の従一位に任命されています。

寧々は、大名たちからの信頼も厚く、統率に力を注ぎました。当時、人質として大名の妻や子を京都に送らせており、妻子のことを心配していた伊達政宗などには手紙を送るなどして安心させ、気持ちよく働いてもらう働き方改革もしていたとか。

子どもがいなかった寧々は、大名の子どもたちの髪をといたり読み聞かせをしたりと愛情深く接しており、妻子の幸せな暮らしぶりに大名たちは恩義を感じていたようです。

3-3.経済力豊かな領地を得る

天正18年(1590)には、奥州一帯を制圧し、秀吉が国内統一を果たします。信長の使い走りから始まり、36年もの歳月を経てからのことでした。朝廷や大名の妻子への対応など、色々な面でサポートした寧々には、政治的なパートナーとしての力も認めており、浮気者の秀吉も大変感謝しています

そのご褒美として寧々に与えたのが、大坂城の南側一帯(現:天王寺と平野)の領地です。寧々は京を離れ大阪を拠点に移しています。聚楽第には関白を譲られた秀次が入りました。秀吉は、「太閤」と呼ばれるようになっています。

一万石の領地といえば、大名に匹敵するほどでした。年貢は貰っていましたが、領土を自分のために使うのではなく、秀吉が遠征した際の物流の拠点にもしたようです。この辺りは、古くから商業が盛んだったことから豊富な経済力があった地で、寧々に任せれば我が身の助けになるとの秀吉の目論見だったともいわれています。

4.寧々夫婦の子供は?

image by PIXTA / 12743993

長浜城に入ってからは、実子がいなかったこともあり、親戚たちを養子や家臣にして教育するようになりました。二人は、実に多くの子供を養子に迎えています。自分に子がなくとも、子供たちを可愛がりました。面倒見の良い寧々は、人を見抜く目も持っており、秀吉の信頼も厚かったようです。ここでは、秀吉の寧々の子供についてお話ししたいと思います。

4-1.秀吉の子供は?

秀吉の実子には、先程お話しした羽柴石松丸勝秀がいました。後に生まれる、側室淀殿との間に、早世した豊臣鶴松と嫡男となった豊臣秀頼もいます。でも、秀頼が生まれたのは、秀吉が57歳の時で、たくさんの養子養女がいました。

まず、秀吉の姉日秀(にっしゅう)の子秀次と秀勝(三代目)。秀次は、秀頼が生まれた後で、暴虐などの罪を着せられ高野山に追いやられ自刃した人物です。寧々の実家からは、木下秀俊(後の小早川秀秋)。彼のことは皆さんご存知でしょう。関ヶ原の戦いで豊臣を裏切り徳川に転じ、豊臣家滅亡の発緒となった人物です。

前田家からは豪姫と摩阿姫、宇喜多家からは秀家が養子になり、後に豪姫と秀家を結婚させています。他には、信長4男の羽柴秀勝(二代目)や、徳川家康の次男結城秀康。後陽成天皇の弟宮八条宮智仁親王(猶子)などもいました。

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