小林一三の前半生について
阪急電鉄の祖である小林一三は明治6年(1873年)1月3日に山梨県韮崎市に生まれました。
ちなみに、小林一三の一三は1月3日に生まれたことから名付けられたそうです。
実家は商人の出身で人生は順風満帆なものになると思いきや、生まれてすぐに母が死去。父もすでになくなっていたため、生まれてすぐにおじ夫婦に引き取られることになりました。
しかし、一三は人一倍勉強をし、高等学校から私塾を経由して福沢諭吉が創設したばかりである慶應義塾に入学。卒業した後は三井銀行、北浜銀行に勤め1907年に大阪に赴任することになりました。
実はダメな銀行員!?
小林一三は銀行員として三井銀行や北浜銀行にて勤務していましたが、実はその実績はないに等しいもの。元々一三は小説家志望だったこともあり、あまり興味のない銀行の世界に入りたくはなかったのでしょう。一三は熱海で病気にかかった友達を訪ねてからしばらくの間熱海で遊び倒して4月の頭まで滞在していたんだとか。
そんなダメダメな銀行員でしたが、大阪支店の支店長であった岩下清周に気に入られることになります。
そして、大阪で設立する予定であった証券会社に誘われて銀行を退社。証券会社の社員としての新しいスタートを切るつもりだったそうですが、ここで思わぬトラブルが舞い込むことになるのです。
不況からの鉄道運営への転身
証券会社に入社しようとしていた矢先。日本では日露戦争における恐慌によって一気に不況に落ち込むことになりました。
そのため、証券会社の設立は立ち消え、銀行をやめた一三は一転として無職に追い込まれてしまいます。幸いにも実家が商人であったため、生活するのには困りませんでしたが、そんな矢先岩沼からとある鉄道会社の運営を勧められました。
それこそが小林一三の名を一気に上げることとなる箕面有馬電気軌道だったのです。
箕面有馬電気軌道は現在のJR福知山線を保有していた阪鶴鉄道の幹部たちによって設立された企業であり、この頃は恐慌の煽りを受けて経営難に落ち込んでいました。
そして、小林一三はこの経営難に落ち込んだ箕面有馬電気軌道の再建に勤めていくようになるのです。
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不安だらけのスタート
こうして箕面有馬電気軌道の経営を行うことになった小林一三。彼は専務でしたが社長は経営していなかったため、実質的にトップの座についていました。
しかし、この当時の箕面有馬電気軌道の状況は悲惨そのものだったのです。
この当時私鉄は阪神電鉄や京浜急行などが設立されていましたが、これらの私鉄は大阪から神戸や、東京から横浜など大都市から大都市への輸送がメインでした。
しかし、この鉄道の沿線は都市開発など全くされておらず、始点の梅田を除けばほとんどが田んぼという状態。こんな状態で乗客が望めるはずもなく、新聞でも「ミミズ電車」と揶揄されるほどでした。
それでも1910年3月10日に現在の阪急宝塚線・箕面線に当たる区間を開業し、運転を開始しましたが、結果としてはやっぱりのもの。
なんとか黒字までには持ってこれたのですが開業してからわずか8日間で2件の列車衝突事故を起こして問題視されたり、やはり乗客の人数があまり多くなかったりするなど鉄道会社として不安でしかない状態だったのです。
経営者としての小林一三
このように不安要素ばかりの鉄道会社を任された小林一三でしたが、一三はこの状態を一気に覆すとある経営方針を打ち立てたのです。
それこそが今の私鉄のほとんどが行なっている鉄道会社による沿線開発でした。
阪神や京急ではそもそも沿線が発展しているためあまり考えなくても収益が見込めますが、箕面有馬電気軌道となると話は別。
乗客が乗る環境を作って鉄道の収益を上げ、そして沿線開発による利益を上げれば経営は安定すると踏んだのです。
一三は早速沿線である池田にて住宅ローンによる分譲住宅を開始。これは当時過密であった大阪から郊外に移転したいと思っていたサラリーマンにとって魅力的なもので庭がつき、さらには一軒家というところに食いついて住宅の売れ行きは上々。次第に池田周辺は一軒家が立ち並ぶベッドタウンへと変貌を遂げることになりました。
さらに、終点の箕面には当時日本最大の規模を誇っていた箕面動物園を開業。さらに翌年の1911年には宝塚に新温泉(宝塚ファミリーランド)を開園し、子供連れの家族の集客を図っていくようになります。
これらの作戦は大当たり。『郊外に住んで電車に乗って大阪に出勤する』という新しい生活スタイルを確立したこの作戦によって予想通りの収益の増加をもたらすことになり、これ以降設立される私立の模範となっていったのです。
現在も続く宝塚歌劇団の創設
こうして沿線に乗客を呼び込み、会社の運営は上々なものとなっていきましたが、一三はこれだけではなく、宝塚に大規模な歌劇団を創設しようと画策していきます。
当時、東京では三越百貨店が少年による音楽隊を結成しており、それを見た一三はこれを宝塚に操業して宝塚に乗客をもっと呼び込もうとしていき、1914年に宝塚歌劇団を創設。
初期の頃はあまり客が来ず『ベルサイユのばら』の公演まで「阪急ブレーブスと歌劇団は阪急の二大お荷物」と呼ばれる時代もありましたが、現在では全国誰もが知っている日本最大の歌劇団となり、阪急の代表格として今でも人々を魅了し続けています。
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神戸線の開業と阪神とのデットヒート
こうして鉄道会社の運営を安定させた一三でしたが、流石に郊外だけの鉄道会社の運営は限界がきてしまいます。
そこで一三は将来のことを見越して大阪と神戸を結ぶ路線を作ることを決定。箕面有馬電気軌道は阪神急行電鉄と名を変えて1920年に現在の阪急神戸線に当たる路線を開業するまでに至りました。
しかし、乗客が見込めるエリアにはライバルが現れるもので、この当時大阪と神戸を結んでいた阪神電鉄との乗客争いに巻き込まれるようになっていきます。
阪神電鉄は多少速度を犠牲にしてでも都市部を繋いでいましたが、阪急は少し山間の過疎地域に敷いており、序盤は阪神の方が乗客が多い状態でした。
しかし、それに伴って阪急では速度を上げて運行を行うことができ、阪神が1時間2分のところを阪急では50分で運行を行うことに成功。
小林自ら新聞にて「綺麗で早うて、ガラアキ、眺めの素敵によい涼しい電車」と路線をアピールして乗客を呼び込もうとしたのです。