2-2.大名の妻となった寧々
秀吉37歳、寧々26歳の時の天正2年(1574)に、信長から13万石を与えられ、立派な大名になったのです。近江長浜城の城主となり、藤吉郎から羽柴秀吉(はしばひでよし)に名前を変えます。周りが秀吉にひれ伏す中でも、なんでもいい合える存在でした。尾張弁で激しく言葉を交わす二人には、周囲はヒヤヒヤ物だったとか。
しかも、秀吉が間違った政治を行えば、それを正すこともあったようです。秀吉も、寧々の助言には、怒ることもなく素直に聞き入れていたとか。結婚当時から姑なか(大政所)とは同居しており、仲が良かったようです。夫婦の、ほどよい緩和剤だったのかも。
2-3.秀吉の浮気に激怒する寧々
二人三脚で大名になっても、夫婦仲は良好でした。寧々の尽力もあり、長浜城下は平和で栄えていたようです。平穏な日々の中で、秀吉の女遊びが始まりました。秀吉が40歳の時に浮気相手との間に、石松丸(せきしょうまる)という男の子が誕生します。
秀吉や家臣や街の人々が、跡継ぎができたとお祝いムードの中、寧々だけは怒りに燃え滾っていたようです。「このたわけが!浮気はぜってゃゆるさん。」と罵倒したとか。秀吉は、寧々の存在はすっかり忘れ、母子を住まわせた南殿に入り浸ります。
残念なことに、石松丸は6歳で病死したようです。子を授かった側室南殿への嫉妬と石松丸への憎悪から、寧々が密殺したのではといわれています。側室南殿には、長女も誕生しているようです。これを機に、豊臣家の跡継ぎ問題が深刻化したといわれています。
2-4.寧々が相談した相手は?
浮気問題で堪忍袋の緒が切れた寧々は、信長に相談の手紙を送ります。20代の寧々は、自分にもまだ子どもができると思っていたから許せなかったのでしょう。
「お前ほどの美しくできた妻はないのに。それが分からんハゲネズミめは、どうしようもないバカだ。
寧々よ、嫉妬心をおこしては、ぬしの格が下がってしまう。
正室らしく堂々として、どっしり構えていなさい。夫を手の中であしらうぐらいの器量をみせよ。」
となだめたとか。大名が世継ぎを授かるために、側室を置くのは当然の時代です。信長は寧々にかなりの気を使った返事といえるでしょう。この後、寧々は側室を持つことを許したとか。
このエピソードからわかるように、信長も認める「才色兼備」という言葉がピッタリの女性だったことは間違いないでしょう。
ちょっと雑学
浮気騒動以来、寧々は自身が秀吉を管理するようになり、夫婦間には掟書(おきてがき)が作られています。それには、「決して寧々の前で威張らない。威張ったら米十石を差し出します。」とか、「寧々に口ごたえをしたら、1日中縛られても文句はいいません。」などユニークなものもあったようです。
寧々は、あめとムチを使い秀吉を上手く操縦する方法を身に付けました。これは、寧々が秀吉の政治的なパートナーとなったということでもあります。
3.天下人の妻となる寧々
当時の日本全土が大騒ぎになった、本能寺の変が起こったのは、秀吉46歳、寧々35歳の時のことです。もちろん、寧々の人生が一変したといっても過言ではないでしょう。だって、農民上りの夫秀吉が、天下統一を果たしてしまうのですから。実母に縁を切られたほどの格差婚から、脱却をしちゃったんです。天正11年(1583)には大坂城に入り、名前を北政所としています。
3-1.天下人の妻寧々
「明智光秀の謀反により、信長さま討ち死に!」との悲報が入った時、秀吉が毛利攻めで中国地方にいました。慌てて近畿地方にまで秀吉は戻り、明智軍を滅ぼし、後継者争いで対立した信長の妹お市の夫柴田勝家をも破ったのです。そして、信長の念願だった、三河から中国地方を我が物としました。天正13年(1585)に秀吉は朝廷から関白を任命され、農民上りの秀吉と下級武士の娘寧々が最高権力者となったのです。
寧々は、政治にも介入するようになり、全国を駆け回る秀吉をサポートするかのように朝廷対策に尽力します。天正13年(1587)には絢爛豪華なお屋敷「聚楽第」を建てました。天下を治めるには、武力だけでは無理。天皇や公家たちに好感をもたれなければと寧々は思ったようです。そのためには、彼らをもてなす場所が京都に必要と、聚楽第が建設されたといわれています。
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