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5分でわかる秀吉の妻「北政所(寧々)」の生涯ー子供や性格は?わかりやすく解説

4-2.人質にも好かれた寧々

長浜城のころから奥を一任されていた寧々の役割は、天下人の妻となり更に幅が広がります。養子養女たちの教育や世話はもちろんですが、降伏した武将たちが差し出した人質の処遇も寧々に任されていました。というより、留守部隊の指揮官を寧々が担っていたようです。「糟糠の妻」と呼ばれる寧々は、秀吉の留守を守り支えていたようですね。

寧々が、人から好かれる人物だったエピソードがあります。徳川秀忠が12歳で人質に差し出された時、不便をさせまいとさまざまなことに気遣いました。人質から解放された後に寧々の住むお城に行った際は必ず訪問し、関ヶ原以降の豊臣家存続問題では、寧々が秀忠を頼ったとの説が残っています。

他にも寧々に信頼を置く人物として、有名なのが関ヶ原の合戦で武断派(豊臣派)だったことで知られる、加藤清正や福島正則。この二人は秀吉の親戚で子飼いという存在で、寧々のことを母のように慕っていたようです。

5.秀吉の死と晩年の寧々

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秀吉は慶長3年(1598)に、病死しています。信長と同じように、サクッと息子に天下人を相続することはできませんでした。寧々は、長生きをしますが、豊臣家の栄光と破滅を見ることになります。それでは、寧々の晩年を見てみましょう。

5-1.寧々は実は西軍の味方だった

秀吉が63歳でこの世を去った後は、出家をして高台院を名乗ります。関ヶ原合戦前の慶長4年(1599)には、大坂城を出ました。寧々は関ヶ原合戦で、徳川方の東軍についたとの説が一般的ですが、実は西軍派だったとの説もあるようです。

秀吉の死後、石田三成の娘が養女となっており、大谷吉継の母は寧々に仕えていました。関ヶ原で西軍が負けてすぐの時、寧々は裸足のまま御所の勧修寺家に身を隠し、秀吉が残した品々を豊国社に隠したと『梵舜日記』に記されています。

関ケ原合戦直前の「大津城の戦い」では、淀殿と組んで講和の交渉や戦後の処理などに当っており、西軍に味方していたのです。寧々の使者孝蔵主の進言で、東軍の京極高次が大津城を明け渡したというもの。これと同時に関ケ原合戦が始まりました。大津城攻めの1万5000人の西軍勢が関ヶ原合戦に間に合わず、最終的には京極高次が足止めをしたとして家康からご褒美を貰っています。

5-2.豊臣家滅びる

一説によると、寧々には家康の怖さを、関ケ原合戦の時は知らなかったといわれています。慶長13(1608)年8月に寧々の実兄木下家定が没したとき2万石の領地を、勝利一人に与えました。長男勝利と次男利房で折半せよとの家康の命を、寧々が無視したことに立腹し、寧々の領地2万石を家康が没収したのです。この件で、彼の恐ろしさを思い知ったとか。

慶長19(1614)年の大坂夏の陣で大坂城が燃え崩れたと聞いた、寧々の気持ちはいかばかりなものだったでしょう。淀殿が側室の身でありながら大きな顔をしており、内心穏やかでなかった寧々は、秀頼の養育も放棄していたようです。でも、豊臣家没落時に家康にいいように扱われていたという説もあり、自分の愚かさに嘆いたとも考えられます。豊臣家の最後を見た寧々は、これで世の中が平和になると内心ほっとしたのでは。大阪落城の1年後に、密かに大阪の陣戦死者の追善供養を行っています。

5-3.寧々は晩年も影響力を持っていた

慶長10年(1605)には秀吉を弔うために、現在の京都府東山に「高台寺」を建て、晩年はここで暮らしています。しかし、周りは寧々の勇退を許してくれず、彼女の発言は出家後も影響を与えており、家康も一目を置く存在でした。大名などからの人脈が厚かった寧々だからこそ、出家をしていたとはいえ豊臣家が滅びても、豪華な高台寺で暮らせたのでしょう。

秀吉の側室で信長の姪淀殿との不仲説もありますが、実は仲良しだったともいわれています。秀吉と結婚してからの大親友、前田利家の正室まつの縁は長く、年をとっても2人で温泉旅行に行ったとか。豊臣家滅亡の瞬間を見る羽目になりましたが、晩年は幸せだった面もあったようです。

5-4.寧々の晩年

秀吉の正室だった寧々は、子や養子養女、人質や子飼いの家臣たちに、時には厳しく時には優しい母として、精一杯の愛情を注ぎ養育していた姿が浮かんできます。また、秀吉が長浜城の主となったころから政に関与し、秀吉の厚い信頼を得ました。北政所と呼ばれるようになると、天下人秀吉を支え、朝廷や大名の妻子や老臣との交流を深めています。高台院となってからは、かつて世話をした、養子や猶子、人質だった子供たちの支えもあり、世の中の動きを静かに見守り、時には手助けをしながら暮らしたようです。

豊臣家が滅亡した9年後の寛永元年(1624)9月6日に、高台寺で逝去しました。最後は知人も少なくなり、ひっそりと余生を過ごしたようです。寧々のお墓は、高台寺内に作られました。残念なことに、秀吉とは別々に眠っています。

大坂城の天守からの眺めは、寧々にとって生涯忘れられない思い出

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秀吉と結婚した時、「夫を出世させて幸せになる」と心に誓った寧々。出世した秀吉が建てた大坂城の天守から眼下に広がる大阪の町を、秀吉と一緒に見たようです。夫に尽くし、人々からの信頼を集めた寧々の気持ちになって、大坂城からの景色を眺めるのは格別かもしれませんね。

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