ヨーロッパの歴史

偉人の恋愛エピソード7選!あの有名人も実は恋愛体質だった!?

5-1.容姿よりも、性格や器量を大事にした光秀

光秀が若い頃、近隣の妻木家から縁談の話が持ち上がりました。婚約相手は妻木家の長女煕子(ひろこ)でした。ところが婚約をしたものの、煕子はひどい疱瘡にかかってしまい、治りはしましたが顔に醜い痘痕が残ってしまいました。

破談にしたくない妻木家は、煕子に瓜二つの妹を身代わりに結婚させようとしますが、光秀にとって煕子こそが自分の妻にふさわしいと考えていました。顔が醜くなったとしても、優しい性格や器量が変わるわけではありません

「自分は煕子だと決めているので、煕子としか結婚したくない」と言って妻に迎えたそうです。

5-2.戦国のおしどり夫婦

光秀が浪人して越前の朝倉家の食客となっていた頃、雅な京文化の影響を受けていた朝倉家では、定期的に家臣たちが連歌会を主催し盛り上がっていたそう。

そして光秀が主催する番になった時、浪人身分の明智家には支度金がなく困り果てていたところ、妻の煕子が自分の黒髪を売り、そのお金で無事に連歌会を開いて面目を保ったそうなのです。妻の行いに感謝した光秀は、終生側室は置かないと誓ったそうですね。

光秀は後年、本能寺の変を起こすことになりますが、敗れて戦死した光秀の帰りを待ちわびながら、煕子は城と運命を共にしたといわれています。戦国のおしどり夫婦のことは後世にまで語り継がれているのですね。

6.女好きの陰に献身的な妻の支え?【伊藤博文】

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不明 author – Rekidai Shusho tou Shashin (歴代首相等写真)Constitutional Government Documents Collection, #1142 (憲政資料室収集文書 1142), パブリック・ドメイン, リンクによる

明治の元勲の一人であり、後に総理大臣にまで昇りつめた伊藤博文。彼の偉業の陰には最愛の妻がいました。妻の名は梅子といいます。日本の変革期にあって懸命に夫を支え、まさに「内助の功」で伊藤を一流の政治家にしたのです。

6-1.伊藤のために尽くす梅子

最初の出会いはなんと伊藤が刺客に襲われたとき。当時、江戸時代末期の長州藩では藩論を巡ってきな臭い空気が漂い、反対派によって命をつけ狙われたのでした。

逃げてきた伊藤を梅子はかくまい、その後たびたび会うようになったそうです。伊藤はすでに結婚しており、今でいう不倫ですが、元々夫婦の折り合いが悪かったためにすぐに離婚。梅子と結ばれたのでした。

しかし伊藤は生来の女好きで、たびたび愛人を作っては浮名を流す日々を送っていました。それでも梅子は献身的な態度を崩さず、明治維新となって夫がどんどん出世していっても、その態度は変わらなかったといいます。

6-2.夫のために懸命に努力。活躍の陰に良妻あり

元々、読み書きすらできなかった梅子は、偉くなっていく夫のために教養を身に付けねばと奮闘。政府高官の妻として英語やダンスなどの猛勉強を経て西洋文化を学んでいきました。

ついには鹿鳴館での社交や、宮中での改革などで大きな役割を果たすことになったのです。

総理大臣になっても女遊びをやめなかった伊藤。岩倉具視の三女極子に関係を迫ったとか、下田歌子を口説いたなどの噂も立ち、スキャンダルとして新聞に書き立てられる日々が続きます。

また総理大臣として政策に対しても様々な批判もあったことでしょう。それでも梅子は「妻の鑑」として夫を支え続けたのですね。

伊藤博文の活躍の陰には、糟糠の妻の支えがあったからに他なりません。

7.何度も自殺未遂を繰り返す昭和のダメ男【太宰治】

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田村茂https://images.wook.pt/getresourcesservlet/GetResource?9MWVLntzzwpNXgzKXB6M9/kjHmoOXOr6DOACXrGglOQ= 八雲書店『太宰治全集 第1巻 (晩年)』(1948年刊), パブリック・ドメイン, リンクによる

「走れメロス」や「人間失格」などの名文学を世に残した昭和初期の文豪太宰治。彼もまた恋を繰り返し、愛に生きた人物でした。最後はその悲劇的な死によって人々の記憶に残り続けますが、違う見方をすれば、太宰ほどのダメ人間はいないことでしょう。

7-1.繰り返される自殺未遂

太宰治は生前、幾度となく自殺未遂をしていますね。まず最初の自殺未遂は1929年の20歳の頃。小説の懸賞に応募したが落選したためだといわれています。たったそれだけの理由で…と普通は考えるはずです。

芸者の小山初代との結婚を反対されていた太宰は、結婚は認められたものの、実家が財産分与をしてくれないことに落胆して再び自殺未遂を起こすことに。

この時には、たった3度会っただけのバー店員だった田部シメ子を道連れにしようとし、結局自分だけが助かる羽目になりました。

1935年、まだ大学留年を続けていた太宰は、実家からの仕送りが途絶えることを恐れて首吊り自殺を図りますが、未遂に終わります。結局は大学を除籍処分になったのでした。

7-2.とことん結婚生活に向いていない男

翌年には妻初代の不倫行為が露見し、絶望した太宰は初代とまたもや自殺未遂。すぐに初代と離婚しました。

1938年、見合いで石原美和子と結婚。今度ばかりは乱れた生活を正し、幸せな結婚生活を送るかに見えましたが、数年後、今度は太宰の愛読者である太田静子と恋に落ちました。

不倫関係でありながら、この二人の間には娘が一人生まれています。太宰は認知こそしましたが、終始冷たい態度を取り続け、その責任から逃げ回り続けたそうです。

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