奈良時代日本の歴史

律令国家が作り上げた「平城京」の歴史をわかりやすく解説

土地や戸籍の制度

律令国家では土地と人民は天皇が支配すると定められました。人を支配するためには、人の居場所や家族構成を把握する必要があります。そのため、人々の名前や居住地、家族構成などが記された戸籍が作られました。

戸籍は6年ごとに編纂します。この戸籍に基づいて、6歳以上の男女に口分田とよばれる土地が支給されました。一人当たりの口分田の面積は24a=2400平方メートル。これは、小さな小学校のグラウンドと同じくらいの広さです。思いのほか広い面積が与えられるんですね。

口分田は、戸籍に登録された人がなくなると国によって没収されました。この当時、土地は個人の財産ではなく国有の財産だったからです。こうして、どの地域にどれくらいの人が住んでいるかを把握できるようになりました。

律令国家の税制

律令国家となった朝廷は、戸籍を整備することにより、いままでよりも効率よく税をとることができるようになります。収穫の3%を納めさせるや、布などをおさめさせる調、税を都に運ばせる運脚(うんきゃく)などが成人男子に課せられました。

また、九州北部や宮中を警備させる兵役も課せられます。これらに加えて年間最大60日間、労役につくことも義務付けられました。口分田と引き換えとはいえ、奈良時代の人々は重い税負担を課せられるのです。

こうして、朝廷は律令を用いることにより、多くの人民を動員し大事業を行うシステムを作り上げました。律令によって生み出された動員力をいかんなく発揮して作られたのが平城京だったのです。

平城京の造営

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大化の改新を成し遂げ、律令国家を作り上げた当時の日本の指導者にとって、中国風の都をつくることは目標の一つでした。平城京のモデルとなった唐の都の長安は人口100万人を数える東アジア随一の大都市です。律令国家が持てる力を注ぎこんで作った平城京について詳しくみていきましょう。

平城京に先立って計画的につくられた藤原京

平城京がつくられる一つ前の都が藤原京でした。藤原京を造営し始めたのは天武天皇です。天武の死後、后で天皇に即位した持統天皇が引き継ぎました。藤原京は、それまで政治の中心であった飛鳥地方につくられた都で、天香具山、畝傍山、耳成山の大和三山に囲まれています。

中国風の本格的な都で、長方形の都全体を碁盤の目状に区切る条坊制をもつ都でした。藤原京の面積は平城京や平安京と比べても遜色ありません。のちの時代の都との大きな違いは、天皇が住む藤原宮が都の中心付近に位置することです。

藤原京は持統天皇・文武天皇・元明天皇の時代に都とされ、大宝律令が施行されるなど律令国家の華やかさに包まれた都でした。天皇や貴族中心におおらかな白鳳文化が花開いたのもこの時代です。

平城京への遷都

平城京への遷都の理由は定かではありません。考えられることは二つ。一つ目は、文武天皇時代の後半に流行した疫病です。古代において、災害や疫病が発生した時は縁起の悪い古いものを捨て、新しいものに変えることで災厄を逃れることができるとする考え方がありました。年号の変更が頻繁に行われた理由の一つがこれです。年号どころか、都をかえて革新することで災いから逃れようとしたのかもしれません。

もう一つの理由は、藤原京に比べ、平城京のほうが都としてふさわしい地相と判断されたからです。藤原京に比べ、平城京の方が大きく平坦な土地を確保しやすく、天皇の住まいである宮を都の北に配置することができました。より、都の完成度を高めて中国に近づけたかったのかもしれません。こうして、708年に元明天皇によって遷都の詔がだされ、710年には都を移します。

平城京の呼び名や構造

平城京という漢字には、漢音と呉音を組み合わせた「へいじょう」京という歴史の教科書にある読み方のほかに、漢音だけで読む「へいぜい」京という別称があります。のちに即位する平城天皇が「へいぜい」天皇と読ませることからわかるように、「へいぜい」でも読むことが可能な漢字だったからでした。現代では、「へいじょうきょう」と読むことが一般的ですね。

平城京は中央を南北に貫く朱雀大路を中心に、西側の右京と東側の左京に分けられます。朱雀大路の入り口に設けられた門が羅城門です。右京・左京には東西の官営市が置かれ、多くの人でにぎわいました。

また、都の中には多数のお寺が建立されます。薬師寺、唐招提寺、西大寺、興福寺、元興寺、大安寺(大官大寺)などがその代表でした。天平時代には大仏がある東大寺も建立されましたね。外京という張り出した部分があるのは平城京独特の特徴です。興福寺や元興寺があるのは外京の部分でした。

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