泣いて馬謖を斬る
228年、諸葛亮は漢中から魏に侵攻し北伐が始まりました。この第一次北伐で最も重要なことは補給線を確保することです。諸葛亮は補給の重要拠点である街亭(がいてい)の守備を馬謖に任せました。諸葛亮が馬謖の才能を高く買っていたからです。
一方、蜀軍の侵攻を重く見た魏の皇帝曹叡(そうえい)は、歴戦の猛将である張郃(ちょうこう)を派遣。張郃は蜀軍の急所である街亭に急行、馬謖軍と相対します。
この時、馬謖は諸葛亮からの布陣指示に従わず、山上に陣を構えました。張郃は、馬謖の立てこもった山が水不足であることを見抜き、包囲して水断ちをします。渇きに苦しんだ蜀軍の士気は低下、張郃は馬謖を大いに破り、重要拠点である街亭を占領しました。重要拠点を失った蜀軍は総撤退。諸葛亮は敗戦の責任者として泣く泣く馬謖を切りました。
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諸葛亮、五丈原にて死す
第一次北伐の失敗後も、蜀軍は北伐を継続しました。第二次北伐では陳倉城の攻略を目指しましたが、守将の郝昭(かくしょう)の奮戦で攻め落とすことができません。第三次北伐では隠平・武都の2郡を平定しますが、それ以上の進撃はできませんでした。第四次の北伐では大雨にたたられて撤退に追い込まれます。
234年5月、諸葛亮は第五次北伐を敢行しました。諸葛亮は食糧問題を解決するため、五丈原(ごじょうげん)で屯田を実施し食料の現地調達をはかり、迎撃してきた魏の司馬懿軍と対峙。諸葛亮は魏の注意を最大限自分のほうに引き付け、呉の攻撃を促したのです。
しかし、呉軍は魏の合肥攻撃に失敗。諸葛亮の目論見は崩れました。234年8月、連年の出兵により体調を崩していた諸葛亮は陣中で病に倒れこの世を去ります。享年54歳。劉備の意志を果たせぬまま死を迎えました。
諸葛亮の死後、蜀は衰退の一途をたどった
諸葛亮の死後、遺言に従って蒋琬(しょうえん)が国のかじ取りを担いました。彼の死後、費禕(ひい)が政治の中心となります。費禕が253年に暗殺されると、姜維(きょうい)が軍権を握り、北伐を続行しました。しかし、国力の衰退や人材不足は補いがつかなくなり、263年、蜀は滅亡します。諸葛亮は自分の死後、蜀が衰退することがわかっていたため、あえて北伐をつづけたのかもしれませんね。
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