ドイツヨーロッパの歴史神聖ローマ帝国

謎深き「神聖ローマ帝国」を始まりから滅亡までわかりやすく解説!

宗教改革と帝国の分裂

こうして神聖ローマ帝国を治めていたハプスブルク家は領土をどんどん拡大していきましたが、この時期になると教皇が贖宥状を発行したことによって宗教改革が勃発。特にドイツのルターは神聖ローマ帝国内にて教皇や教会を批判するなどの活動を行なっていき、それに呼応するかのように農民たちが一大内乱を起こすなどめちゃくちゃな状態となってしまいます。

さらに、この宗教改革の混乱に乗じたかのように当時世界最強と呼ばれていたオスマン帝国がウィーンに侵攻。ハプスブルク家はなんとかウィーンを守り抜くのですが、この戦争によって神聖ローマ帝国は疲弊。ルター派が作ったプロテスタントに対して少し譲歩しなければならなくなり、1555年のアウクスブルクの和議にて諸侯の信仰の自由が認められました。

また、神聖ローマ帝国もその領土が広大過ぎたため、1556年にカール5世が退位すると子であるフェリペ2世にスペインと南イタリアを、弟のフェルディナント1世にオーストリアという形で分割して、ハプスブルク家は分裂しました。

三十年戦争と帝国の崩壊

帝国の分裂の後、神聖ローマ帝国はスペインと南イタリアを失いドイツ地域のみが領土となっていました。さらに、この時期には諸侯の権力が強くなっていったこともあってかどんどん比例していくかのように皇帝の権威が低下。神聖ローマ帝国はほとんど帝国の様相ではなかったのです。

そしてついにそんな神聖ローマ帝国にとどめを刺す戦争が起こってしまいます。それこそが三十年戦争でした。

三十年戦争とは簡単に言えば神聖ローマ帝国皇帝が帝国内の諸侯にカトリックの信仰を強要したことが原因で起こった戦争なんですが、この戦争によって帝国内はカトリックとプロテスタントに分裂。さらにはイギリスやフランスなどの近隣諸国も介入したことによって三十年戦争の名前の通り三十年もの戦争状態に突入してしまったのです。

そしてなんだかんだで戦争が続いていた1648年、三十年戦争はウェストファリア条約の締結によって終戦。しかし、この条約こそが神聖ローマ帝国を亡き者にした条約だったのでした。

ウェストファリア条約の内容

ウェストファリア条約の内容はオランダとスイスの独立の承認やアウクスブルクの和議を再確認してプロテスタントの信仰を認めたなど様々な条文があるのですが、その条文の中にドイツ諸侯の主権を認めるという文章がありました。

これはどういうことかというと当時神聖ローマ帝国という地域は諸侯が神聖ローマ帝国の枠組みの中で諸侯たちが領地を治めていたのです。しかし、諸侯の主権を認めるということとなると各領主に国としての権利(例えば法律を作る立法権や民衆に税金をかけれる課税権や外国と交渉ができる外交権など)が諸侯たちに与えられ、神聖ローマ帝国の命令を聞かなくとも自由に領地の運営が出来るようになったのでした。

これは神聖ローマ帝国からしたら大ショックなことです。このウェストファリア条約によって神聖ローマ帝国は諸侯をまとめれる権利を失ってしまい、帝国としての意義を成すことができなくなってしまいました。

ちなみに、このウェストファリア条約を『神聖ローマ帝国の死亡証明書』とも言ったりするのですが、本当にこの条約によって神聖ローマ帝国は死んだも同然となったのです。

神聖ローマ帝国のその後

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こうして帝国としての意義を失ってしまった神聖ローマ帝国でしたが、その後もこの帝国はハプスブルク家の領地にて細々と続いていくこととなります。次はウェストファリア条約が結ばれてから神聖ローマ帝国が滅亡するまでの歴史を見ていきましょう。

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