荘園の管理を任せた武士の台頭
しかし、平安貴族たちの天下は、次第に武士層の台頭によって土台が崩れていきました。平安貴族たちの富の源泉は荘園でしたが、その荘園の管理を任された地頭と呼ばれる武士たちが、次第に荘園から生まれる貴族たちの収入を収奪するようになったからです。
源平合戦によって長い平安時代は終わったが、平安京は続いた
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全国の武士たちは、平安時代後半に、源氏と平氏に別れるようになり、源平合戦の結果、最終的に源氏の天下となり、源頼朝が征夷大将軍になりました。頼朝は、武家の統領として武士たちの土地(もともとの荘園)の所有権を安堵(保証)するようになり、荘園制度は崩壊し、平安貴族の時代は終わったのです。
天皇家も貴族たちも収入の道を絶たれ、武士に依存する時代になりました。武士たちの任官の決定権は朝廷のままであり、その権利を利用して武士たちから収入を得ていたのです。征夷大将軍を任命できるのは天皇であることは変わりなく、天皇は平安京の内裏におり、貴族たちも平安京から動きませんでした。そのため、平安京は、その後も明治維新まで京都の地に残され、日本の首都となっていたのです。
しかし、天皇の地位を利用した権力争いが、武士の世の中が成立してから江戸時代になるまで繰り広げられ、平安京は何度も戦禍にあって炎上しています。そのために、現在の京都御所も平安京の中心には存在していないのです。
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武士の世の終わりとともに平安京も終焉を迎えた
そして、武士の世の中が終わり、明治新政府が成立するとともに東京に天皇も移り、平安京の都としての歴史も終わりました。平安京は、かつて都であったことから、多くの寺社を利用した観光都市となっているのです。
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日本文化の源である平安京と平城京
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平城京も平安京も、中国の唐の都長安をモデルとして、初めて本格的な都市計画のもとに作られた都でした。特に、平安京は1,000年以上にもわたって、日本の首都として日本文化の発祥の地となっていたのです。最近では、外国人の観光客が多くなり、日本人の観光は減少傾向にはありますが、私たちの日本が生まれた地として、平安京や平城京を忘れないようにしましょう。