平安京遷都によって日本の都はようやく京都に落ち着いた
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長岡京から平安京への遷都がおこなわれたことにより、日本の都はようやく1,000年以上におよぶ都に落ち着くことができました。古代から長い間、王宮のある都は天皇家の発祥の地である大和盆地(奈良盆地)にありましたが、ついにそこを離れたのです。
平安京も唐の長安をモデルに作られた
新たに作られた平安京は、平城京に比べてもはるかに大きく建設されました。内裏を中心として都大路が走り、東西、南北にも大路、小路の街路が何本も走った計画都市だったのです。市街地には貴族たちの邸宅が配置されて、それらの有力貴族の名前が通りに付けられました。都の西は右京と言われ、東は左京と言われ、東の端には比叡山がそびえていたのです。さらに、都の内外に寺院も建てられ、都大路の北の入り口にも東寺、西寺というお寺が建てられましたが、現代では東寺が残るのみになっています。風光明媚な外京の嵐山には、後に貴族たちの別荘が建てられ、禅寺の天龍寺も造営されました。
かつて山背と呼ばれた京都は、渡来貴族で、聖徳太子時代には力を持っていた秦氏の根拠地でした。その地が、都として生まれ変わったのです。
従来の都であった平城京のあった奈良は南都と呼ばれ、興福寺などの勢力を持つ寺社勢力の代名詞になりました。かつては、シルクロードの終着点と言われた奈良の都はこうして歴史の遺物となっていったのです。
実質的に平安朝廷を牛耳っていたのは藤原氏
このように奈良の寺院勢力から逃れて遷都された平安京でしたが、天皇家の力が復活したわけではなく、貴族に牛耳られる、貴族文化が花開いた都の時代の幕開けとなりました。すなわち、有名な中臣鎌足を祖先とする4家に分かれた藤原氏が、それぞれに力を持つようになり、天皇家の力をしのぐ存在となっていったのです。
貴族文化の花開いた平安京_藤原一族の繁栄を支えた荘園
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貴族たちが力を持った背景には、奈良時代に制定された墾田永年私財法がありました。新たな畑などの開墾によって得た土地は、その開墾をした人(貴族)の所有物になるという法律が施行されたからです。当時は中国の律令政治が取り入れられ、農地は国の所有となり、それを口分田として農民に割り当てられていました。しかし、不作などで農民は租庸調と言われた税や労働負担に耐えきれず、逃亡するようになり、国家の収入が減ってしまったのです。
そこで墾田永年私財法が制定され、新たな農地の開拓は貴族たちに依存するようになりました。貴族たちは逃げ出した農民を使って、自分たちの財産になり、大きな収入になる農地の開拓を盛んにおこなったのです。これらの貴族の私有地は、荘園と呼ばれて平安貴族たちの財力を高め、藤原氏の子孫たちは、摂政、関白などになり、平安京の政治を牛耳るようになりました。その代表が有名な藤原道長だったのです。
遣唐使を止めて日本独自の文化が花開いた平安京
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平安時代に入ると、唐の力が衰えたこともあり、日本独自の文化に目覚めるようになり、遣唐使は廃止されました。そして、女性を中心に、日本独自の文化である「ひらがな」や「カタカナ」が考案されたのです。紫式部の「源氏物語」、清少納言の「枕草子」などの新たな日本独自の文学作品も生まれることになり、紀貫之の「土佐日記」のように男性貴族にも広がっていきました。
そして、平安京は、日本文化の発祥の地となり、ここからさまざまな文化が日本全国に広がっていったのです。
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