平安時代日本の歴史

日本の古代文化が花開いた「平城京」と「平安京」をわかりやすく解説

藤原京から平城京への遷都

7世紀になって、蘇我氏などの豪族たちの強い時代から、後の天智天皇になる中大兄皇子が大化の改新を起こして、大王(天皇)中心の政治を取り戻しました。その際には、中国の王朝の政治形態を真似るようになり、壬申の乱で天武天皇が政権の座に就いてからはその傾向は強まったのです。天皇中心の政治ために臣下を都に集める必要があり、天武天皇の皇后でその後に即位した持統天皇は藤原京を建設しましたしかし、規模が小さく、手狭になったために、平城京の建設がおこなわれるようになったのです。その背後には、持統天皇の父になる天智天皇の側近であった中臣鎌足、すなわち藤原鎌足の一族の影響が強かったと言われています。

ふたたび豪族の力が強まった奈良時代は女帝の時代だった

すなわち、藤原京から平城京の時代には、豪族の力がふたたび強まって天皇家の力は弱まっていたのです。特に、藤原鎌足の子息たちが力を持ち、藤原不比等とその子息などの力が強まります。その背景には、天武天皇の直系に強い男子が生まれなかったことがありました。

そのために、藤原京から平城京の時代には、前半には男子の天皇は文武天皇と聖武天皇のみで、女帝の時代になっていたのです。41代持統天皇、43代元明天皇、44代元正天皇や、文武天皇の後の46代孝謙天皇(重そして48代称徳天皇)などはすべて女帝でした。現在の男系天皇のみの時代とは大きく違っていたのです。

そのため、長屋王の乱、橘奈良麻呂の乱、藤原仲麻呂の乱など騒動も多く起こりました。

仏教による平和祈願は裏目に

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平城京で天皇位を継いだ聖武天皇は光明皇后とともに、仏教を尊び、その力で統治しようとします。そのため、天平文化が花開くとともに、平城京には、東大寺、興福寺などの大寺院が立ち並んだのです。その結果、大寺院は僧兵を養い、大きな勢力になっていってしまいます。藤原氏などの勢力よりも力を持つようになり、聖武天皇の娘である称徳天皇の時代には弓削寺の僧道鏡が女帝に取り入って大きな権力を持つに至ったのです。

過去になかった規模の平城京

平城京は、唐の長安をモデルとして、初めて都市計画を取り入れた都でした。内裏の平城宮を北の中心にして、そこから南北の朱雀大路を軸に、右京と左京に分けられ、左京の外には、東大寺を含む外京と言われる街区が作られていたのです。藤原京よりは規模が大幅に大きくなり、条坊制と言われる南北、東西の大通りが設けられています。平城宮の朱雀門の北には大極殿がありました。

この大極殿は、今ではJRなどからも見えるように復元再建されています。

そして、当時は、寺院もたくさん作られ、東大寺の他、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺などは四大寺と言って、藤原京から移築されていました。また、その他にも聖徳太子ゆかりの法隆寺、薬師寺など大きな伽藍(がらん)を持つ多くの寺院が奈良盆地北部には林立していたのです。

南都仏教勢力の台頭から山城の国に遷都_桓武天皇による長岡京遷都

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桓武天皇や貴族たちは、宇佐八幡神宮の神託で、弓削道鏡を追い落としました。しかし、南都と言われる興福寺などの寺院の力は強いままでした。そして、ついに都そのものを移すことを考え、桓武天皇は、奈良盆地から離れて山城の国に遷都することを決断したのです。最初に選ばれた地は、現在の長岡京市でした。

南都の寺社勢力は強く抵抗しましたが、彼らの力を弱めるためにはどうしても遷都の必要があったのです。

長岡京はなぜ続かなかったのか

長岡の地は増えた貴族たちをすべて収容するためには狭すぎました。さらに、長岡京の建設を担当していた藤原種継が暗殺され、その陰謀に桓武天皇の皇太弟早良親王が関わっていたとされ、配流の途中に死去する事件が起こったのです。それ以降、長岡京では、天皇近親者の相次ぐ死去や飢饉・疫病・洪水などが起こったため、早良親王の怨霊に祟られていると考えられました。

怨霊から逃れるためにも、広い土地である山背の国(京都)への再遷都の必要が生じたのです。そして、ついに794年(延暦13年)に現在の京都盆地に都をふたたび移すことになりました。

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