小田原城開城とその後
天下の大軍を引き受けて小田原城へ籠った北条軍。しかし、その抵抗力も刻一刻と弱まっていきます。そして最後の時が訪れようとしていました。
北条氏の降伏と小田原城開城
過去には何度も敵の包囲を跳ね返した小田原城。実は豊臣軍の来攻を予測して、【総構え】という土で造った巨大な外郭陣地を造営していました。そのおかげで豊臣軍も包囲するばかりで本格的な戦いは起こりませんでしたが、秀吉は小田原城を見下ろす山に総石垣の壮大な城を築きます。(石垣山城)そのために北条家中の動揺は収まらず、北条軍の士気は下がるばかり。
小田原城に籠城した兵力は5万ほどでしたが、【小田原評定】という故事もあるように、戦局打開の目途すら立たずにひたすら城に籠って無為な時間を過ごすだけ。これで激しい戦いがあればまた違ったのでしょうが、そうはならず、北条軍の中からは離反しようとする者まで現れる始末。
刀折れ矢尽きることもなく籠城すること約3ヶ月ののち、ついに5代目当主の北条氏直は降伏を決意します。結局責任を問われたのは4代目氏政、その弟氏照、そして重臣の松田憲秀と大道寺政繁が切腹。氏直は高野山へ追放という命令が下されました。こうして関東に覇を唱えた北条一族は滅亡したのです。
その後の北条氏と関東
小田原の役の結果、北条氏は全ての領国を失い、滅亡したかに思われました。しかし高野山へ追放された氏直はあきらめませんでした。謹慎しつつも懸命に赦免活動を繰り返し、早くも翌年には秀吉に許されて1万石の大名に復帰しています。その後、氏直は若くして亡くなるのですが、氏直の跡を継いだ北条氏盛は狭山藩の初代藩主となり、幕末までその系譜を伝えていくことになりました。
いっぽう北条氏なきあとの関東には、そっくりそのまま徳川家康が領地替えで移ってきます。しかし家康は、傷ついてもいない堅城の小田原城ではなく、当時は鄙びた田舎の江戸へ本拠を移したのです。それはなぜでしょうか?
北条氏に代わる新しい関東の主となることを内外に知らしめるには、北条氏の影は払拭しなければなりません。だから小田原城では具合が悪かった。そして江戸は利根川(後に付け替えられる)や多摩川などの大河に囲まれ、守りやすい地形で水運の便が良かった。さらには江戸の同心円状に岩槻や川越、佐倉などの旧北条氏の支城が分散しており、そこに譜代家臣を配置することで江戸を守ることができた。などの理由が挙げられるでしょう。
もし、小田原の役が発生せずに北条氏がそのまま関東にいたなら、きっと現在の東京も存在していなかったでしょう。当時の徳川氏の領国だった静岡が日本の首都になっていたのかも知れませんね。
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関東に数多く残る北条氏の史跡
かつての関東の覇者だった北条氏。その時代から430年もの歳月が経過していますが、現在でも北条氏が存在していたことを示す痕跡を随所に見つけることができるのです。小田原城の総構え跡や、八王子城、鉢形城、韮山城などの中世城郭跡がそれで、見事な遺構が現存しているために訪れる人も多いのですね。
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