安土桃山時代室町時代戦国時代日本の歴史

「小田原征伐」とは?後北条氏の興亡の歴史をわかりやすく解説

豊臣政権下、なおも領土拡大を続ける北条氏

中央では、秀吉が着実に体制を盤石なものにしつつあり、1583年、賤ヶ岳合戦で柴田勝家を打ち破った後には大坂城を築くなど、権威の高揚に努めていました。しかし秀吉にとって、しなければならないことが山積しており、関東の情勢に目を配る余裕はなかったのです。

そのような状況の中、北条氏は全関東の支配を目論んで進撃を続けていました。既に房総半島の里見氏を従属させていた北条氏は、全軍を北関東へ差し向け、現在の栃木県の宇都宮や佐野あたりにまで侵攻しました。かつての平将門や源頼朝が成し遂げたような北条による大帝国の建設を目指していたことは明らかでしょう。

北関東を北条氏が席巻していた頃、ようやく豊臣政権は徳川を臣従させ、四国の長宗我部を下し、九州の島津氏を屈服させることに成功していました。そこでやっと関東へ目を向けることができるようになったのです。

豊臣政権側の譲歩

1587年、豊臣政権は関東や東北地方に対して惣無事令(そうぶじれい)】を発令しました。これは天下人として、大名同士の私闘を禁じるというもので、北条氏の動きを牽制するものでした。

対富田左近将監書状披見候、関東惣無事之儀、今度家康ニ被仰付候之条、其段可相達候、若相背族於有之者、可加成敗候間、可成其御旨也

(秀吉直臣の富田一白からの書状で知っての通り、関東での戦いの禁令のこと、このたび徳川家康に申し付けておいた。そのこと間違いなく伝えておく。もし禁を破るものがあれば、成敗するつもりであるから、そう心得るように。)

引用元 白土文書(福島県史)より

惣無事令の発令とともに、さらに秀吉は北条氏に対して譲歩をします。かねてから真田氏の支配下にあった沼田領のうち2/3を北条に割譲し、1/3を真田に残すというものでした。

徳川家康を臣従させた時と同じく、譲歩案をもって戦いをやめさせようとしたのでした。しかし、なぜか北条氏政はこの譲歩を豊臣政権側の弱腰外交だと受け取ってしまうことに。それが北条氏の運命を決めてしまったのです。

【小田原の役】始まる

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豊臣政権の実力を完全に見誤ってしまった北条氏。秀吉の実力は、かつて柴田勝家や徳川家康たちと戦った時とは比べ物にはなりませんでした。北条氏お得意の籠城戦術で対抗しようとしますが…

名胡桃城事件と関東出陣

現在は群馬県みなかみ町にある名胡桃城跡。続100名城にも登録され多くの遺構が現存していますが、この城で北条氏の運命を決定づけた事件が起こりました。突如、沼田領の真田氏側にあるこの城が北条氏によって奪取されたのです。なぜ北条氏があえてこの城を奪おうとしたのか?豊臣政権の恐ろしさを理解していなかったのか?多くは謎に包まれており、史料を見ても理由は判然とはしません。しかし、いずれにしても沼田領を奪ったところで既成事実さえ作っておけば、後はどうとでもなるという北条氏側の楽観的な見方は否定しようがなく、北条氏の認識の甘さが垣間見えるところでしょう。

いっぽう、その知らせは真田氏から秀吉の元へ届けられ、すぐさま北条氏に対して5ヶ条の最後通牒が突き付けられました。しかしそれでも当主氏政が自ら出頭して弁明することもなく、ついに関東に対して出陣の陣触れが発令されたのです。

この時すでに秀吉は関白。天皇の政務を代行する立場にありました。秀吉の言葉を無視し背く者は、天皇に対して弓を引く者。これまで北条氏に対して譲歩を続けてきた秀吉の我慢が限界に達した時でした。

天下の軍勢を引き受ける北条氏の戦略

天下の大号令のもと、関東出陣のために実に20万を越す大軍勢が参集。対する北条氏側は小田原城に主力を集め、まずは東海道を東進してくるであろう豊臣軍主力を迎え撃つことに決しました。天下の険【箱根】を越えてくるであろう豊臣軍を、まずは堅城で名高い山中城で防ぎ止め、しかる後に北条軍主力を出陣させて雌雄を決するという戦術だったのです。

しかし、頼みとしていた4千の兵で守る山中城は、たった数時間で激戦の末に落城。北条側の目論見は完全に外されてしまいました。となると、あとはひたすら小田原城に籠って豊臣軍が引くのを待つしかありません。かつて上杉謙信に包囲された時には、敵は多くてもたかだか7万程度。しかも雪深くなる越後へ帰還せねばならないため、短期の包囲戦で終わっていました。ところが、今度の豊臣軍は大量の兵力と膨大な兵糧を持ち込み、何年でも包囲できるだけの態勢で持久戦に出てきました。おそらく北条方の兵たちは震撼したことでしょう。

北条側にとって痛手だったのが、かつて氏直と督姫が婚姻したことによる同盟を、徳川氏に破棄されてしまったことでした。秀吉との大事な仲介役を失うことに。さらに唯一の同盟者だった奥州の伊達政宗までもが豊臣軍に参陣し、北条氏はますます孤立無援になっていきます。

崩壊していく支城ネットワーク

かつて、小田原城が包囲された際に有効に機能していたのが、北条氏が誇る支城ネットワークでした。小田原城の周辺には韮山城、玉縄城、小机城、八王子城、忍城、山中城、松井田城、岩槻城、松山城などの支城が張り巡らされ、互いに連携して敵を牽制し、うまく防御していました。

しかし小田原の役では、機能するどころか各個撃破されてしまうことになったのです。小田原城に兵力を集中させるために精兵が抽出されて、各城には留守部隊しか残されていなかったこと。そして豊臣軍は小田原城を包囲するかたわら、その有り余る兵力をもって支城を一つ一つ潰していったのです。

小田原城周辺の支城群は軒並み落城し、中でも八王子城の戦いは激しく、多くの婦女子が滝へ身を投げて自害し、その水が三日三晩赤く染まっていたといいます。八王子城は現在でも有名な心霊スポットとなっており、悲劇の歴史を今に伝えているのです。

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