室町時代戦国時代日本の歴史

信長が桶狭間の戦いで乾坤一擲の大勝利を収めた理由とは?わかりやすく解説

今川軍の出撃と前哨戦

信秀の死後、三河及び尾張東部での織田家の力は低下していました。今川義元は大高城・鳴海城・沓掛城を落とし、信長の財政基盤である津島の海運を脅かします。それに対し信長は鳴海城の周辺に善照寺砦や中嶋砦などで鳴海城に、丸根砦や鷲津砦で大高城にそれぞれ圧力を加えました。

1560年6月、今川義元が25,000の大軍を率いて駿府を出立。その目的は三河・尾張方面での織田家との戦いに決着をつけることと、京都に上洛することでした。義元は松平元康ら三河勢を先行させ大高城に兵粮を届けさせます。

今川の大軍迫るとの報を受け、織田家では清須城に籠城すべきか出撃すべきかで激しい議論が続きました。しかし信長は軍議では目立った発言はせず、なすすべがないかに見えます。その間も今川勢は丸根砦・鷲津砦を攻撃。二つの砦は今川軍の猛校の前に陥落しました。こうして、前哨戦は今川軍優位で推移します。

信長の情報収集と今川義元の動向

今川軍が尾張に攻め込むと知った信長は今川軍の動向を探らせていました。松平元康が大高城に兵粮を入れたことから、今川軍の当面の目標が大高城であることははっきりしていましたが、今川義元がどのルートを進むかまではわかっていません。

圧倒的な兵力差を覆すためには今川軍の総大将今川義元を討ち取るしかありません。そのためにも義元の居場所を探る必要があったのです。信長は今川軍が丸根砦・鷲津砦を攻撃したとの報を受け取ると幸若舞の「敦盛」を一踊り舞った後、直ちに出撃します。

途中、熱田神宮に立ち寄って戦勝祈願をした後、善照寺砦に入りました。この時、信長が率いた軍勢は2000~3000程度と推定されます。信長は部下が集めた情報などから、今川義元の本隊は桶狭間を抜け鳴海城から清須城方面に向かうと予想。全軍を率いて桶狭間に向かいました。

桶狭間での戦闘

新田次郎氏の小説に『梅雨将軍信長』という本があります。信長が「雨の運」を持っていることからつけられた表題です。織田軍が桶狭間に到着した時、空は暗さを増し、昼であるにもかかわらず前が見えないありさまでした。

梅雨時の激しい雨は織田軍の軍馬の響きや甲冑の音をかき消したことでしょう。今川軍の護衛も、桶狭間が前線から離れていることなどから警戒が緩んでいたかもしれません。今川軍は合計25000の大軍でしたが各所の砦を攻めていたたこともあって、義元の近くには5000ほどの兵しかいなかったようです。

梅雨空の中、突如として出現した織田軍を見て、今川軍は大混乱に陥ります。義元は親衛隊に守られながら後退を試みますが、織田軍の度重なる攻撃に護衛は打ち減らされました。激戦のさなか、とうとう今川義元は織田軍の毛利新介(良勝)に討ち取られてしまいます

桶狭間の戦いの影響

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総大将今川義元を失った今川軍は駿河・遠江に向けて潰走。最前線で戦っていた松平元康ら三河勢も退却します。岡崎城にいた今川氏の代官は敗報を聞き駿河へ逃走しました。こうして、松平元康は岡崎城をとりもどしたのです。松平元康は今川氏から独立し信長と同盟します。今川義元の死は三国同盟にも亀裂を走らせ、東日本の情勢を大きく揺るがすこととなりました。

今川氏の弱体化と清洲同盟

義元の死後、今川氏真が今川家の実権を握りました。氏真は桶狭間の敗北で動揺した味方の立て直しを図ります。一方、辛くも難を逃れた松平元康は今川氏の代官が放棄した岡崎城を接収。松平氏の旧領回復をはかりました。

元康は、今川氏と距離を置き徐々に独立の姿勢を示します。1561年、松平元康は今川家を離反。信長と手を結び三河の今川勢力を一掃します。翌1962年には織田信長と松平元康は清洲同盟を締結。これにより、信長は北の美濃や西の伊勢に勢力を広げ、元康は東三河や遠江に進出することが可能となりました。

清洲同盟で背後を固めた元康は名を徳川家康と改め遠江へと進出。徐々に今川氏真を追い詰めていきます。一方、甲斐の武田信玄は今川義元の死後、今川氏の力が衰えたと見るや駿河進出を画策。今川氏は武田氏と徳川氏に挟み撃ちにされて滅亡しました。

信長の美濃攻略

桶狭間で今川義元を討ち取った信長は清洲同盟で背後を固めると、信長は美濃攻略に乗り出しました。当時の美濃の支配者は斎藤竜興です。竜興は祖父の斎藤道三や父の斎藤義龍に比べると凡庸と評される人物。とはいえ、美濃攻略は簡単にできることではありませんでした。

信長は桶狭間の合戦以後、断続的に美濃を攻め、竜興を弱体化させます。また、信長は同時に調略も進め西美濃で勢力をふるっていた美濃三人衆を味方にするなど着実に勢力を拡大。

1567年、信長は木下藤吉郎が築城した墨俣城を足掛かりに稲葉山城を攻撃、ついに城を落とすことに成功します。信長は占領した稲葉山城を岐阜城と改名。1568年、信長は足利義昭を奉じて上洛。天下布武への道を着実に歩んでいきました。

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