- 豊臣秀吉の将来を決めた山崎の戦いとは
- 明智光秀による本能寺の変_織田信長の最期
- 明智光秀には織田家臣はほとんど味方しなかった
- 備前で清水宗治を攻めていた秀吉はどうやって本能寺の変を知った
- 本能寺の変を知った秀吉のとった行動
- 秀吉に天下取りを囁いた黒田官兵衛
- 秀吉の毛利方との和議
- 秀吉の決断に対する毛利方の対応
- 秀吉の中国大返しとは
- 夜通し駆けて姫路城へ_黒田官兵衛の貢献
- 秀吉の大返しを知った明智光秀の狼狽_腹をくくって迎え撃つしかなかった
- 両軍が激突した大山崎の戦いへ
- 京都への入り口大山崎とは_山と淀川に挟まれた狭い地域
- 三日天下といわれるけれど
- 謎に満ちた明智光秀の最期_竹藪で地元民の槍で刺されたと言われるが
- なぜ織田家の有力家臣は参加できなかったのか
- 山崎の戦いの結果は秀吉の大勝利
- 清洲会議で正式に織田家の後見人に
- 賤ヶ岳の戦いで柴田勝頼を破って名実ともに織田家の後継者に
- 山崎の戦いは戦国時代の終わりを告げた
この記事の目次
豊臣秀吉の将来を決めた山崎の戦いとは
天正10年6月に起きた本能寺の変によって、織田信長を自刃に追いやって天下を握ったのは明智光秀でした。それに対して、毛利方との対陣から馳せ戻った羽柴秀吉が、関西の織田家の家臣を集めて戦いを挑み、見事に光秀を打ち破ったのが山崎の戦いです。
この山崎の戦いで勝利した羽柴秀吉は、いち早く織田信長の仇を討ったことから、信長の後継者となり、天下人までなりました。後の豊臣秀吉となる羽柴秀吉にとって、山崎の戦いは、それこそ、天下分け目の大一番だったのです。
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明智光秀による本能寺の変_織田信長の最期
天正10年6月2日の未明、亀山城(亀岡市)を出て山陰に出陣する前に、愛宕神社に詣でた明智光秀は、軍勢を山陰とは逆方向の南を指して、「敵は本能寺にあり」と出撃を命じました。これが本能寺の変の始まりです。織田信長は、小姓たちや少数の警護の兵とともに、山陽道の羽柴秀吉に乞われて備前高松城に行くために京都の本能寺に宿泊していました。二条城には、長男の織田信忠も一部の兵と宿泊していたのです。明智光秀は、軍勢を二つに分けて、両方を囲んで同時に攻撃しかけました。
本能寺の織田信長は、小姓たちを中心に必死に防戦しましたが、大軍に囲まれて脱出は無理だと悟ると、宿泊坊に火をつけて自刃したのです。二条城にいた織田信忠も抵抗しましたが、討ち死にしました。
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明智光秀には織田家臣はほとんど味方しなかった
これによって、織田信長に代わって、京都で権力を握った明智光秀は、天下人として、全国各地の有力大名たちに、信長を討ったことと、自分を支持するように使いを出したのです。同時に、関西にいた織田信長の家臣たちにも自分を支持するように使いを出します。しかし、明智光秀と仲の良かった細川藤孝・忠興父子やキリシタン大名の高山右近なども主君を討った明智光秀に味方を申し出るものはおらず、中立を貫き、様子見をしたのです。
細川忠興は、明智光秀の娘のお玉(細川ガラシャ)を妻にしていましたが、それでも味方にはつきませんでした。
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備前で清水宗治を攻めていた秀吉はどうやって本能寺の変を知った
しかし、備前(今の岡山県)にいて高松城の清水宗治を攻城していた羽柴秀吉はどうやって本能寺の変を知ったのでしょう。
高松城はまだ落ちてはいませんでしたが、秀吉が織田信長の出陣を乞うたと言うことはすでに勝負は見えていた時期だったと言えます。
秀吉の軍にいた蜂須賀小六は、6月3日から4日未明に、明智光秀が毛利家に向けて出した使者を捕らえたことで、秀吉は本能寺の変と信長の死を知ったのです。羽柴秀吉は、信長が謀反で殺されたことを知って号泣したと言われています。当然、毛利方への使者であったために、毛利方は本能寺の変を知りませんでした。
本能寺の変を知った秀吉のとった行動
織田信長の死を知って悲しみにくれていた羽柴秀吉でしたが、その秀吉が備前から飛んで帰って、なぜ明智光秀を討てたのでしょう。備前高松城を水攻めにしていた秀吉は、わずか11日後には明智光秀軍を山崎の戦いで打ち破っているのです。当時は新幹線も、高速道路もなく、徒歩の雑兵も多かった秀吉軍がわずかの日数で山崎の戦いに挑めたのは、奇跡に近かったと言われています。この間の秀吉の行動を見てみましょう。