安土桃山時代日本の歴史

秀吉の天下人へのスタートとなった「山崎の戦い」をわかりやすく解説

清洲会議で正式に織田家の後見人に

山崎の戦いに勝った羽柴秀吉は、京都(山城の国)に入り、信長の跡を継ぐ動きを見せました。しかし、織田家にはまだ多くの家臣がおり、信長と長男の信忠が亡くなったことから、後継者を信長の血縁者から選ぼうと清洲城で会議が行われます。いわゆる、映画などにもなっている清洲会議です。集まった有力者は、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興でした。有力家臣の滝川一益は、北条氏との対陣が長引き、参加できませんでした。

この清洲会議では、当初、織田信長の次男信雄と三男の信孝が家督相続を主張して争っていたのです。しかし、秀吉が織田信忠の子供の幼い三法師を抱いて現れ、後継者として主張します。それを丹羽長秀が支持したため、結局、三法師が家督を継ぎ、秀吉がその後見人となることを認めることに決まったのです。その結果、実質的な後継者には羽柴秀吉が決まりました。ここから、秀吉は上り詰め。太閤秀吉と言われるようになるのです。

賤ヶ岳の戦いで柴田勝頼を破って名実ともに織田家の後継者に

しかし、織田家には、柴田勝家のように羽柴秀吉の後継を望まない勢力が残っており、羽柴秀吉はと対立するようになります。しかし、秀吉は、勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、さらに現在の福井市にあった北ノ庄城に追い詰めて、自刃させ、名実ともに織田家の後継者になったのです。それ以降、羽柴秀吉は、一気に天下人への道を歩むようになりました。

その意味で、やはり、山崎の戦いは、天下分け目の天保山の戦いだったと言えるのです。

山崎の戦いは戦国時代の終わりを告げた

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山崎の戦いは、豊臣秀吉が天下人への階段を上る最初の階段だったと言え、これによって戦国時代に終止符が打たれたと言えるでしょう。関ヶ原合戦が天下分け目の戦いと言われていますが、実際にはその20年ほど前に天下分け目の戦いはあったのです。下克上で乱れた戦いの世の中を終わらせた戦いと言ってよいでしょう。これは、現在の混乱した世界の世相にも通じるものがあり、争いと対立の続く世界を早く終わらせてほしいものです。

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