安土桃山時代日本の歴史

秀吉の天下人へのスタートとなった「山崎の戦い」をわかりやすく解説

両軍が激突した大山崎の戦いへ

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そして、山崎の地を挟んで対峙していた両軍は、6月13日についに山崎で決戦を開始したのです。秀吉軍の兵力は、光秀軍の2倍程度あったと言われています。そのため、戦いは一刻、すなわち2時間を経過した頃には秀吉軍の攻勢に耐えきれず、光秀軍は総崩れになったのです。天下分け目の戦いの勝負はあっけなくついてしまいました。

京都への入り口大山崎とは_山と淀川に挟まれた狭い地域

山崎の地は、現在は大山崎町とも言われ、張り出した天保山と淀川に挟まれた狭い地域でした。この辺りには兵士たちで溢れ返ったのです。天保山があることから、山崎の戦いは天保山の戦いともに言われ、勝負を分ける戦いを後に「天保山の戦い」と言うようになりました

現在では、阪急電車の大山崎駅がある他、JRの在来線や新幹線、名神高速道路も通っています。名神高速道路には天保山にトンネルが通っており、「天保山トンネル」と言われているのはご存じの方も多いのではないでしょうか。また、天保山の裾野は水が綺麗で、サントリーのウィスキー工場があり、阪急電車などから眺めることができます。

三日天下といわれるけれど

明智光秀の天下は「三日天下」と短いことの例えとして言われていますが、実際には11日間でした。いずれにしても、短期間の天下であったことには変わりありません。明智光秀の家老であった斉藤利三の娘は、お福と呼ばれ、後に徳川三代将軍家光の乳母になり、有名な春日局として天下に影響を与えています。そのことから、本能寺の変には徳川家康がかかわっていたのではないかという説もあるのです。

謎に満ちた明智光秀の最期_竹藪で地元民の槍で刺されたと言われるが

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明智光秀の最期はいろいろの説があり、遺体も発見されていません。通説では、逃げ落ちる途中で、山科小栗栖村の村人たちの竹槍に刺されて絶命したと言われています。しかし、遺体は不明で真相もわかっていないのです。

そのために、生き延びて、江戸時代の徳川家康の側近にいた天海和尚が明智光秀であったという説まで出ています。天海和尚は、春日局とともに家光の三代目将軍を支持していました。

なぜ織田家の有力家臣は参加できなかったのか

織田信長の家臣たちの中で、他のメンバーはなぜ参戦できなかったが疑問ですね。それは、柴田勝家、滝川一益などの有力武将は、北陸、関東で上杉景勝や北条氏政との戦いの最中で、秀吉のように勝敗がほぼついていなかったことにあります。また、丹羽長秀の場合は、まだ四国に渡る前で、京都には一番近い位置にいました。しかし、信長の死の情報を抑えられず、兵士たちに広がり、多くの将兵たちが逃げ出したため、戦さができず、秀吉の戻るのを待たざるを得なかったのです。

このように、羽柴秀吉には、多くの幸運が味方して山崎の戦いに勝利できたと言えます。

山崎の戦いの結果は秀吉の大勝利

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山崎の戦いは、羽柴秀吉の大勝利に終わりましたが、その結果、戦国の世は主役が変わり、秀吉が天下人への道を駆け上がっていったのです。

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