安土桃山時代日本の歴史

秀吉の天下人へのスタートとなった「山崎の戦い」をわかりやすく解説

秀吉に天下取りを囁いた黒田官兵衛

明智光秀が毛利方へ送った使者が持っていた書状には、信長を討ったことが書かれてあり、これによって羽柴秀吉は織田信長の死を知って悲嘆にくれていたのです。この羽柴秀吉の耳元で密かにささやく声がありました。軍師の黒田官兵衛(孝高)です。「いよいよ天下をとる機会が訪れています。これを逃してはなりません。」こう官兵衛は秀吉に囁いたと言われています。はっと気がついた秀吉は、すぐに黒田官兵衛と蜂須賀小六に、急いで毛利方との和議をまとめるように命じたのです。秀吉方は、毛利方への道をすべて断って、毛利方に情報が漏れることを防いだと言われています。

秀吉の毛利方との和議

当時、羽柴秀吉は備前高松城を水攻めで包囲し、毛利方の参謀安国恵瓊は、すでに高松城の城主清水宗治を見限っていたと言われています。何よりも、毛利方への明智光秀の使者が捕まったために、本能寺の変での織田信長の死を知りませんでした。そのため、羽柴陣営からの譲歩した和議の申し出にはこれ幸いと受けることになったのです。備中、美作、伯耆の3ヵ国の割譲と城主の清水宗治の切腹で話をつけた秀吉は、宗治の切腹を見届けると、一気に中国道を一気呵成にかけ戻っていきました。

もともと、秀吉と毛利方の交渉では、山陰を含めて5ヵ国の割譲が条件でそれまで折衝が行われていたのです。従って、その条件を緩和したため、清水宗治を見限った毛利方には受け入れやすいものでした。

秀吉の決断に対する毛利方の対応

毛利方に信長の死の報せが伝わったのは、羽柴軍が撤収した翌日と言われています。悔しがった毛利方では、主君毛利輝元の叔父の吉川元春が追撃を主張しました。しかし、その弟の小早川隆景は誓紙を交換した上は和睦を守るべきと主張して、結局、毛利方は追撃しませんでした。

小早川隆景は、後に豊臣秀吉の厚い信頼を寄せられますが、そのきっかけはこの時の小早川隆景の行動にあったと言われています。

秀吉の中国大返しとは

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羽柴秀吉の軍勢は、一気に黒田官兵衛の居城である姫路城までかけ戻ったのです。これを中国大返しと呼んでいます。ほとんど休みを取らず、姫路城まで一晩でかけ戻ったのです。ルートは現在でもわかっていません。高松城を発ったのは6月4日から6日という諸説がありますが、姫路城に入ったのが6日あるいは7日と言われています。直線距離で70kmを、大軍がわずか1~2日で走破した行軍は、当時としては考えられないスピードであったと言われました。中国大返しという言葉として残っているのです。

夜通し駆けて姫路城へ_黒田官兵衛の貢献

羽柴秀吉の軍師として参戦していた黒田官兵衛は、自分の姫路城の本丸を秀吉に提供して、秀吉軍の回復に努めました。秀吉軍は姫路城で2日間の休息をとった上で、大阪の摂津の茨木城に入ったのです。その間に、関西にいた丹羽長秀や中川清秀、信長の三男信孝、池田恒興などと連絡をとり、軍勢に加えました。そして、富田(今の高槻市)に陣を構えたのです。

秀吉の大返しを知った明智光秀の狼狽_腹をくくって迎え撃つしかなかった

一方の明智光秀は、それまでに信長の本拠地で居城であった安土城を焼き払い、近江を平定していました。しかし、羽柴秀吉の帰阪に驚き、細川忠興、藤孝父子や高山右近などに再度加勢を依頼したのです。しかし、細川父子は中立を守り、高山右近は秀吉方に味方し、動きませんでした。結果的に、明智光秀は、単独で秀吉軍を迎え撃つことを覚悟せざるを得なかったのです。

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