大政奉還の背景
江戸幕府に限らず、室町幕府も鎌倉幕府も自主的に政治の権利を朝廷に返すことはしませんでした。慶喜にしても、最初から大政奉還という一か八かの手は考えていなかったでしょう。徳川慶喜が大政奉還という思い切った手に出なければならなかったのはどうしてなのか。その背景を探ります。
貿易の始まり
1858年に結ばれた日米修好通商条約により、日本はアメリカだけではなくイギリスやフランス、ロシアなどとも貿易を開始しました。この時期の日本と諸外国との貿易を居留地貿易といいます。居留地貿易は日本に大きな影響を与えました。
主な貿易相手はイギリス。生糸などを輸出し、武器や綿織物・毛織物を輸入しました。本格的に貿易が開始されると輸出が急増し生産が全く追いつきません。その結果、品物が全体的に値上がりし物価が急上昇しました。
また、外国商人は日本と外国の金と銀の交換比率の差に目を付け、大量の金を持ち出しました。慌てた幕府は日本と外国の交換比率を合わせるために金の小判の質を落とします。
お金の価値が落ちて(小判の質が落ちて)、モノの値段が上がったためインフレーションが発生。見る見るうちに物価が高騰。米の値段は10年間で9倍以上に跳ね上がりました。多くの人々は外国人が来たせいで生活が苦しくなったと感じたでしょう。
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尊王攘夷運動と公武合体
貿易による物価高騰は庶民の幕府に対する反感を引き出します。下級武士中心に極端な排外思想である攘夷運動と天皇を敬うべきだという尊王論が合体した尊王攘夷運動がおこりました。尊王攘夷を唱える武士たちは外国人の襲撃を繰り返します。
一方、政治は朝廷と幕府が協力して行うべきだという考え方もありました。これを公武合体論といいます。老中の安藤信正は孝明天皇の妹である和宮と将軍家茂の妻に迎えて公武合体を推し進めようとしました。
しかし、そのことが尊王攘夷派の怒りを買い安藤信正は坂下門外で襲撃されて失脚。以後、指導力をもって幕府政治を実行できる人物は徳川慶喜の登場まで現れず、幕府は常に後手後手で事態に対応していくことになります。
攘夷の失敗と薩長同盟
尊王攘夷派が勢いづいたのは1862年に生麦事件がきっかけです。薩摩藩主の父、島津久光が勅使とともに幕府の改革を要求するために江戸に向かいました。江戸で久光は幕府の老中たちに改革派の徳川慶喜や松平慶永の登用を認めさせます。
目的を達成した久光が横浜居留地周辺の生麦村を通過中、イギリス人が馬に乗ったまま行列を横断。これを無礼だと怒った薩摩藩士がイギリス人を切り捨て薩英戦争に突入。イギリスとの戦争でイギリスの力をまざまざと見せつけられることになりました。
一方、尊王攘夷を最も強く唱えていた長州藩も外国軍の洗礼を浴びます。1863年に下関海峡を通行中の外国艦船に長州藩が砲撃を加えました。諸外国は連合軍を結成。1864年、大艦隊が長州藩の下関砲台を攻撃し占拠。長州藩を屈服させました。
外国の強大な力を見た薩摩藩と長州藩は徐々に接近。外国勢力を追い出すことより、ともに幕府と戦おうと考え薩長同盟を締結しました。
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大政奉還の経緯
薩摩藩と長州藩が手を組むことにより、幕府の優位は徐々に傾き始めます。1866年に行われた第二次長州征討で薩摩藩は幕府の出兵要請を拒否。そればかりか、薩長同盟に基づいて長州藩を支援します。京都では公武合体派だった孝明天皇が急死。幕府から見れば事態は急速に悪化してきたのです。
孝明天皇の死と討幕派の勢力拡大
幕末に天皇の位にあったのが孝明天皇でした。孝明天皇は基本的に外国を排除すべきだという攘夷論者です。日米修好通商条約には反対。まして、近畿で貿易が始まったり外国人が日本に来ることなど大反対という考え方です。
しかし、幕府を倒して政治をしようとまでは思っていません。幕府を倒して政権交代を実現したい薩摩藩や長州藩からすれば歯がゆいところもあったでしょう。1866年、孝明天皇がまだ若かったにもかかわらず急死し幼い明治天皇が即位したことから事態は大きく動きだします。
このころ存在感を増したのが中級貴族の岩倉具視。岩倉は薩摩藩の大久保利通らと接触し、討幕派の結集を図ります。薩摩藩・長州藩・岩倉具視らは武力で幕府を倒す討幕を推し進めようとしたのです。
ちなみに、同じ発音でも倒幕の場合は平和的に幕府を倒すことも含みますが、討幕の場合は武力で幕府を倒すことを指しました。
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徳川慶喜の将軍就任
混乱する幕府にとって最後の希望となったのが徳川慶喜でした。慶喜は14代将軍の座を紀州藩主の徳川慶福と争って敗れて以来、冷遇されていました。慶喜が復権するのは島津久光が幕府に要求して将軍後見職とされて以降のことです。
14代将軍徳川家茂が第二次長州征討のさなかに大坂城で亡くなると、戦いを半ば強引に中断し体制の立て直しを図ります。非常事態でいつまでも将軍の座を空位にすることはできません。老中たちは徳川慶喜に徳川本家の相続と将軍就任を打診。最終的には慶喜もこれを受け入れます。
慶喜は会津藩・桑名藩と連携しつつ京都周辺で政治を行いました。そのため、在任中に江戸城に足を踏み入れることなかったのです。将軍に就任すると、フランス公使ロッシュの強力の下、幕府軍の強化を図ります。討幕派は慶喜が力をつける前に叩き潰そうと画策しました。