討幕の密勅と土佐藩の提案
明治天皇の即位後、岩倉具視やら三条実美ら討幕派の力が強まります。薩摩藩は長州藩・広島藩などと手を組み武力討幕の機会をうかがいました。討幕派は幕府を倒し新政権の樹立を狙ったのです。
1867年10月13日、朝廷は薩摩藩主・長州藩主に徳川慶喜や会津・桑名藩を追討するようにという命令、いわゆる「討幕の密勅」をひそかに下しました。天皇の命令である勅命としては形式が整っていない部分があることから、真偽のほどは定かではありません。しかし、朝廷が武力討幕派の影響を強く受けつつあったのは徳川慶喜にとって脅威だったはずです。
事態打開の提案は土佐藩から出てきました。土佐藩は必ずしも武力討幕に賛成ではありません。土佐藩は朝廷の下で徳川家も含めた有力藩が政治に参加する公儀政体論の立場をとりました。公儀政体を実現するため、幕府が自主的に政権を朝廷に帰すよう促したのです。
大政奉還の実施
大政奉還のアイデアは元土佐藩士の坂本龍馬が考案した「船中八策」の中にあります。龍馬は土佐藩士の後藤象二郎に自らのアイデアを示しました。後藤は土佐藩の実権を握っていた前藩主の山内容堂に大政奉還をこれらの案を提案し、山内容堂もこれに同意。大政奉還と公儀政体の実現を土佐藩の藩論としたうえで徳川慶喜に大政奉還を提案したのです。
慶喜は一見、不利に思える大政奉還の提案をなぜ受け入れたのでしょうか。慶喜の狙いは薩長らの武力討幕派に攻撃の口実を与えず、大政奉還後の朝廷で徳川氏主導の幕府・雄藩連合をつくることでした。また、政治の経験に乏しい朝廷は外国との交渉や力を持った雄藩のコントロールは難しく、最終的には全国組織を持ち、最大の軍事力・経済力を持つ幕府・徳川家を頼るだろうとの予測もあったでしょう。
1867年10月13日、慶喜は諸大名を二条城に集め大政奉還の考えを明らかにし、翌日には朝廷に大政奉還の上表を行いました。その結果、同じ日に下された討幕の密勅は効力を失い、武力討幕の口実を与えないとする慶喜の目的は達成されたかに見えました。
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大政奉還のその後
大政奉還後の政治の流れは慶喜の予想どおりにはなりませんでした。武力討幕の機先を制せられた討幕派は体勢を立て直し、王政復古の大号令・小御所会議で慶喜を追い詰めます。慶喜は兵を集め朝廷に圧力をかけようとしましたが、かえって薩長との武力衝突となる鳥羽伏見の戦いを引き起こしました。
王政復古の大号令と小御所会議
大政奉還で出鼻をくじかれた討幕派。しかし、岩倉具視や大久保利通は武力討幕をあきらめませんでした。1867年12月9日、朝廷の実権を掌握した岩倉らは王政復古の大号令を出させます。その内容は、幕府の廃止、摂政関白の廃止、幕府に変わる新政府の役職として三職を設置することなどでした。
三職には皇族や有力大名、公家らが就任しましたが徳川慶喜は排除されます。続いて同じ日の夜に小御所会議を開催しました。会議の目的は徳川慶喜の力を削り取ること。討幕派は慶喜に持っている内大臣の官位と所有している土地を朝廷に返上するよう要求します。
これに対し公儀政体派の土佐藩らは慶喜だけに過酷な仕打ちをするのは不公平であるとし、慶喜の政権参加を要求しました。特に、岩倉具視と山内容堂は会議で激論を交わしますが、岩倉の「今回の決定は天皇陛下のお考えである」との主張に沈黙せざるを得ません。こうして、朝廷は慶喜に官位と土地の返上を命じる辞官納地を決定しました。
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鳥羽伏見の戦いの敗北と慶喜逃亡
この決定に収まらなかったのが慶喜よりも彼の下にいた旧幕府の家臣たちです。現場の指揮官たちは慶喜に京都進撃を強く主張。慶喜もこれを許可します。旧幕府軍は京都に向けて進撃を開始しました。
1868年1月3日、京都の南にある鳥羽・伏見の地で旧幕府軍と薩長を主力とする新政府軍が激突し、鳥羽伏見の戦いがはじまります。新政府軍は旧幕府軍の3分の1と数の上では不利でした。戦い初日は旧幕府側の連携のまずさもあって新政府軍有利な状況で推移します。翌日以降、旧幕府軍は淀方面へと後退し体制立て直しをはかりました。
しかし、朝廷が仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任じ錦の御旗などを与えたことから戦局は大きく転換します。錦の御旗に逆らって賊軍とされたくないと考えた諸藩が幕府から離反。淀藩は城門を閉ざし、津藩は新政府側につき砲撃を加えてくる状態で旧幕府側が劣勢となりつつありました。それでも兵力はいまだに新政府を上回っていました。
ところが、大坂城で指揮を執っていた慶喜が突如、江戸に脱出。戦意を失った旧幕府側は解散してしまいました。その後、慶喜は江戸の無血開城に同意。政治の世界から身を引きました。
大政奉還でも討幕の流れを変えることはできなかった
討幕の密勅をはじめ、次々と新たな手を繰り出す岩倉や大久保らの討幕派に対して、起死回生を狙った一手が大政奉還です。現実的には非常に有効な一手でしたが、朝廷を握った討幕派の勢いを止めることはできませんでした。一度加速した歴史の流れを変えることは慶喜ほどの優秀な人物でも難しかったのです。
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