日本の歴史鎌倉時代

鎌倉文化の時代に革新を遂げた鎌倉仏教と仏像を元予備校講師がわかりやすく解説

今からおよそ700年から800年ほど前の日本は武士たちの時代である鎌倉時代でした。この時代、仏教で革新的な動きが次々と起こり、鎌倉仏教とよばれる新たな仏教の宗派が生まれます。同じころ、仏像の世界でも運慶・快慶をはじめとする慶派の仏師たちがリアリティあふれる仏像を作り上げました。今回は、鎌倉文化の時期に発達した鎌倉仏教と仏像について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

次々と新しい宗派が生まれた鎌倉仏教

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源平合戦から始まった鎌倉時代は、承久の乱や宝治合戦、霜月騒動など血なまぐさい闘争の時代でもありました。不安定で殺伐とした世界に生きる人々は仏教に救いを求めます。仏教者たちは民衆の救いを求める願いに呼応するように新しい仏教を次々と開き、旧仏教とされた既存の仏教も発展を見せました。後世、この時代の仏教を鎌倉仏教と呼びます。鎌倉仏教と開祖たちについてみてみましょう。

鎌倉仏教とは何か

聖徳太子の時代に日本に伝来した仏教は、鎮護国家の仏教であり、国や皇族、貴族たちの仏教でした。平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、それまで支配者に独占されてきた仏教が民衆に向けて大きく開かれます。この時代に生まれた仏教を「鎌倉仏教」とよびました。

鎌倉仏教の流れは大きく分けて4つ。一つは末法思想と浄土の教えを軸とする浄土教系の仏教。浄土宗や浄土真宗がこれにあたりますね。次は禅宗系。栄西を中心とする臨済宗と道元を中心とする曹洞宗はともに坐禅を重視しました。

三つ目は法華宗。比叡山に学んだ日蓮は法華経を最重要視し、その他の仏教はすべて邪宗であると否定しました。四つ目は、旧仏教と総称される法相宗や華厳宗、律宗の僧侶たちです。彼らは自分たちの宗派の教義を広め日本仏教はかつてないほど発展しました。

法然が開いた浄土宗

法然は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した僧侶です。法然は仏教の大学ともいえる比叡山で天台宗の教義を学んだ後、阿弥陀仏を深く信仰する浄土宗を開きました。

法然は著書『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』で、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と念仏を唱えることで極楽往生(極楽浄土に往生)できるとする専修念仏(せんじゅねんぶつ)を説きます。

法然は、極楽往生を遂げるには難しい教義や苦しい修行、寺を建てるなどは不要で、ただひたすら南無阿弥陀仏ととなえることで極楽往生できると説きました。

比叡山の僧侶たちは法然の専修念仏を停止させようと朝廷に圧力をかけます。後鳥羽上皇は訴えを受け入れ、京都での専修念仏布教を停止させました。

また、75歳という当時としては高齢だったにもかかわらず、四国の讃岐(香川県)に流罪とされます。それでも、公家や武士、庶民と幅広く支持された浄土宗は法然死後も広がりを見せました。

親鸞が開いた浄土真宗

浄土宗を開いた法然には数多くの僧侶が師事しました。なかでも、もっとも有名なのが浄土真宗の開祖となった親鸞。親鸞は法然の浄土宗を肯定しつつ、法然によって明らかにされた極楽往生への道筋を継承し、さらに高めようと努めます。

親鸞は一念発起(一度信心を起こして念仏を唱えれば、直ちに極楽往生が決まる)や悪人正機(煩悩深い悪人こそ阿弥陀仏が救おうとする相手)であると説きました。

弟子の唯円が書いた『歎異抄(たんにしょう)』には、親鸞が説いた悪人正機について書かれています。

善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という冒頭の一説は、善人が往生を遂げるは当然、まして悪人ならなおさら救われるという逆説的な言い回しで、人々に悪人正機を強く印象付けました。

また、親鸞は著書『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』などで極楽往生は自分で達成する者ではなく、他力、すなわち阿弥陀仏の力によって達成されるという他力本願も説きます。親鸞の考えを支持する人々は、浄土真宗の教団を形成しました。

一遍(いっぺん)が開いた時宗(じしゅう)

一遍は法然や親鸞よりも後の世代で、鎌倉時代中期に活躍した僧侶です。伊予国(愛媛県)の豪族河野氏の一族として生まれた一遍は、10歳で出家。九州の中心地である太宰府で修業の日々を送ります。

1263年、父の死をきっかけに還俗(僧侶から一般人に戻ること)しましたが、領土争いなどに嫌気がさしたのか1271年にふたたび出家。信濃国(長野県)の善光寺などで修業しました。

1274年、一遍は全国各地を旅しながら修業する遊行を開始。聖徳太子ゆかりの四天王寺や弘法大師空海が開いた高野山など全国各地を転々とする日々を送りました。そのため、一遍は遊行上人ともよばれます。一遍は旅先で南無阿弥陀仏と書かれた札(六字名号)を配って回りました。

一遍は信心の有無、浄不浄を問わず全ての人が念仏を唱えることで救われると説きます。さらに、神祇信仰も取り入れ、諸国を遊行しながら踊念仏をしつつ布教活動しました。

栄西が開いた臨済宗(りんざいしゅう)

栄西は法然とほぼ同時代の平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した禅僧です。栄西はえいさい、ようさいとも読まれますね。

岡山県にある吉備津神社の禰宜の子として生まれた栄西は他の僧侶と同様、比叡山に登り仏教の研究を行いました。栄西は貴族と結びつきを強め、政争に巻き込まれる天台宗を立て直す必要を感じ、中国(宋)にわたって天台宗を学びました。

このとき、栄西は南宋で流行していた禅宗についても学びます。帰国した栄西は『興禅護国論』を著し、禅宗は天台宗の教えに背くものではないと主張。京都で禅宗の布教を開始しました。

栄西が日本に持ち帰った禅宗は中国で発達した禅宗五家の一つである「臨済宗」です。栄西の臨済宗は公家や幕府有力者に受け入れられ、京都五山鎌倉五山を形成しました。臨済宗では坐禅をくみながら師から与えられる公案に挑むことで悟りに達することを重視しました。

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