日本の歴史鎌倉時代

鎌倉文化の時代に革新を遂げた鎌倉仏教と仏像を元予備校講師がわかりやすく解説

道元が開いた曹洞宗

道元は親鸞と同じく、鎌倉時代前期から中期に活躍した禅僧です。道元は京都の貴族の家に生まれました。少なくとも、鎌倉時代初期には三井寺で修業をしていたようです。建仁寺で栄西の弟子である明全に師事したのち、明全とともに中国の南宋にわたりました。

中国滞在中、道元は南宋の高僧である天童如浄からただひたすら坐禅に打ち込む黙照禅(曹洞宗)を教わり、只管打座の禅を受け継ぎました。只管打座とは、ただひたすら坐禅することで悟りに達するというものです。

帰国後、京都で曹洞宗を開きましたが、比叡山延暦寺と対立し弾圧されました。1243年、越前国の地頭である波多野義重の招きで越前に移ります。1244年、大佛寺を開き、翌年に永平寺と改めました。道元の禅は北陸地方の武士たちを中心に広がります。

日蓮が開いた法華宗(日蓮宗)

日蓮は鎌倉時代中期、一遍と同じころに活躍した僧侶です。1222年、日蓮は房総半島最南端にあった安房国の漁村で誕生しました。12歳のころ、天台宗寺院である清澄寺で修業を始めます。

修業を重ねた日蓮は清澄寺での修業だけでは物足りなくなり、比叡山延暦寺にのぼりました。延暦寺で修業を重ねた日蓮は正しい戒律を守り、弟子たちの模範となる僧侶に与えられる阿闍梨の称号を与えられます。

修業の中で日蓮が見出したのは法華経の教えでした。日蓮は釈迦の正しい教えは法華経であると考え、題目南無妙法蓮華経)を唱えることで救われると説きます。日蓮は「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」と述べ、法華経以外の教えを激しく非難しました。

日蓮は鎌倉幕府に『立正安国論』を提出。鎌倉幕府が禅宗を廃し法華経を受け入れなければ内乱や他国からの侵略を招くと警告。幕府は日蓮を伊豆の伊東に流罪としました。

その後も、対立する人々に襲撃される小松原の法難や鎌倉幕府に処刑されかける龍の口の法難など苦難を重ねつつも布教をつづけました。

旧仏教の復興

法然に始まる鎌倉仏教の革新は、古くからある在来の仏教(旧仏教)の僧侶たちに強い刺激を与えました。彼らは、旧仏教内部で改革運動を起こします。

法相宗では解脱坊貞慶(じょうけい)が戒律の復興をおこないました。貞慶は法相宗の京学研究を行い、法相宗中興の祖とされます。朝廷の信任も厚く由緒ある寺社の復興にもかかわりました。法然の浄土宗を批判したことでも知られますよ。

華厳宗に現れたのは明恵(みょうえ)。1206年、明恵は後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ高山寺を開山します。貞慶と同じく戒律を重視し、法然の浄土宗に強く反発。『摧邪輪』を著して法然に反論しました。

律宗を代表する僧侶の一人が忍性(にんしょう)です。忍性は戒律復興に努めたほか、病人救済などの社会事業も行いました。奈良につくられた北山十八間戸ではハンセン病などの患者を受け入れ保護・救済します。

躍動的な鎌倉文化期の仏像・人物像

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鎌倉仏教の開祖たちが活躍した鎌倉時代は、仏像や僧侶の彫刻が大きく発展しました。中でも、慶派とよばれる運慶・快慶らが属した仏師集団は金剛力士像をはじめとする躍動感あふれる仏像を世に送り出します。同時代の作品である、東大寺の重源上人像や六波羅蜜時の空也上人像などの人物像も写実的な作風で、仏像製作の世界にも新たな潮流が生まれました。

東大寺金剛力士像

華厳宗の大本山である東大寺。聖武天皇の発願により建てられた東大寺は、奈良時代以来の長い歴史を有します。世界遺産でもある東大寺には数多くの国宝級の寺宝がありますが、中でもその勇壮さで知られているのが金剛力士像です。

金剛力士像を作成したのは慶派とよばれる仏師集団。中でも頭領の運慶と優秀な仏師である快慶が中心となって金剛力士像を完成させました

。鎌倉時代に建てられた東大寺南大門の中に二体安置されている金剛力士像は、一つが口を開けた阿形、もう一つは口を閉じた吽形とよばれます。この二体がセットになることから生まれたことわざが「阿吽の呼吸」なんですよ。

筋骨隆々とした二体の金剛力士像は、仏法の守り手として寺院の門に安置されることが多かった仏です。東大寺南大門の金剛力士像は、わずか69日間で作成されたとのこと。短期間で作られたと思えない、重厚なたたずまいは見るものを圧倒します。

東大寺重源上人像

平安時代の末期、東大寺は平重衡によって焼き討ちにされました。大仏殿も大仏も焼き尽くされてしまいます。荒廃した東大寺を再建したのが東大寺中興の祖とされる重源上人でした。

朝廷は東大寺再建のため、周防国(山口県の一部)の税収を充てることとしましたが、それだけでは足りません。重源は諸国から寄付金を募るための勧進を組織し、全国を回らせます。重源自身は京都の後白河法皇や鎌倉の源頼朝など有力者に働きかけ、寄付金を出させることに成功しました。

1206年、重源上人がなくなると弟子たちが重源の遺徳をしのび重源上人の坐像を作らせます。リアリティある彫刻であることから、慶派の仏師がかかわった可能性が高いのではないでしょうか。

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