- 生涯の主・劉備と弟分・張飛との出会い
- 人並み外れた体格と髭の持ち主
- 劉備、張飛との出会い
- 曹操の捕虜となるが、義を通して主君のもとへ舞い戻る
- 曹操の捕虜となるも厚遇される
- 離れ離れになった劉備のもとへ戻る決断をする
- 関所を突破し、強敵を次々と斬り捨てる
- 主君・劉備の右腕として存在感を大いに発揮
- 諸葛亮に嫉妬も…自尊心をくすぐられ、矛を収める
- 逃げる曹操を見逃した?
- 要衝・荊州の軍事総督となる
- 一時は曹操を凌ぐ勢いも、味方に裏切られ…
- 毒矢で負傷しても平然としていた
- 勢いのすごさに曹操が怖気づく
- 致命的な欠点:同僚と仲が悪かった
- 味方に裏切られ…ついに捕らえられる
- 孫権に惜しまれながらも斬首となる
- 神となった関羽
この記事の目次
生涯の主・劉備と弟分・張飛との出会い
弟分の張飛(ちょうひ)と共に劉備の義勇軍に参加した関羽は、以後固い忠誠を捧げ続けます。それは、関羽が曹操に捕らわれ、一時は曹操軍の一員となってからも変わることはありませんでした。そのことを物語るエピソードと共に、劉備と出会ったころの関羽についてご紹介しましょう。
人並み外れた体格と髭の持ち主
関羽の生まれた年は不詳です。字(あざな)は雲長(うんちょう)といいました。後の世で通俗小説として人気を博した三国志演義では、身長は9尺(約216センチ)、2尺(約48センチ)もの立派な髭を生やし、なつめの実のような赤ら顔をしていたと描かれています。「美髯公(びぜんこう)」と呼ばれることもあるそうです。
元々は河東郡(かとうぐん/山西省運城市)の出身でしたが、幽州涿郡(ゆうしゅうたくぐん/河北省涿州市)に逃れてきたと伝わっていますよ。一説には、出身地の河東郡解県(かいけん)が塩の一大生産地で、彼は塩の密売に関わっていたのですが、ぼろ儲けしている塩商人を殺害したために逃げてきたという話もありますね。
劉備、張飛との出会い
その頃の中国の情勢は、後漢の末期。王朝の末期は世が乱れるのが当たり前でしたが、この時も、黄巾(こうきん)の乱という大規模な農民反乱が起きていました。各地で反乱軍に対する義勇軍が立ち上がりましたが、その中には劉備がいたのです。
張飛と出会っていた関羽は、すぐに彼と共に劉備の義勇軍に参加しました。こうして、三国志でもっとも有名な3人組は出会うこととなったのです。
三国志演義では、3人の出会いが「桃園(とうえん)の誓い」として描かれています。意気投合した彼らは、張飛の屋敷の裏にある桃園で義兄弟の契りを交わし、将来裏切ることのない関係を築くことを約束したのでした。
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曹操の捕虜となるが、義を通して主君のもとへ舞い戻る
劉備と曹操の戦いで劉備は大敗し、関羽は曹操の捕虜となってしまいます。しかし、曹操は関羽に惚れ込んでおり、何かと厚遇して引き留めようとしました。それでも関羽の心は劉備にあり、彼は曹操軍として戦で功績を挙げると、一目散に劉備のもとへ馬を走らせます。その姿を見た曹操は、追うことを禁じたのでした。
曹操の捕虜となるも厚遇される
三国志の三国とは、曹操(そうそう)の魏・孫権(そんけん)の呉(ご)・劉備の蜀(しょく)のことを指していましたが、関羽が従ったころの劉備は、まだ蜀を建国するなど夢のまた夢。あちこちの勢力を転々としている状況でした。
200年、曹操のもとに身を寄せていた劉備は裏切りますが、力が及ぶわけもなく、敗れて曹操のライバル・袁紹(えんしょう)を頼って逃げ込みました。
この戦いで、なんと、関羽は曹操の捕虜となってしまいます。しかし曹操は関羽の武勇に惚れ込み、将軍に任じて厚遇したのです。優秀な人材なら、敵であっても取り立てるのが曹操でしたから、関羽は喉から手が出るほど欲しい存在だったのでした。
三国志演義では、曹操に属した関羽が董卓(とうたく)側の豪傑・華雄(かゆう)をわずか一合で打ち倒し、曹操のもとに帰ってきた時には、曹操が出撃前に差し出した酒がまだ温かかったというエピソードが描かれています。
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