三国時代・三国志中国の歴史

三国志人気No.1!男も惚れる忠義心溢れる勇将「関羽」の生涯をわかりやすく解説!

要衝・荊州の軍事総督となる

劉備が益州(えきしゅう/四川盆地と漢中盆地)に入ると、関羽は別行動を取り、荊州の守備を任され、軍事総督となります。要衝の守備ですから、関羽が劉備から絶大な信頼を受けていたことがわかりますね。

しかし、劉備はやがて荊州を巡り孫権と対立するようになります。となると、荊州を任されていた関羽が最前線に立たされることとなるわけで、215年には孫権の配下・呂蒙(りょもう)が攻撃を仕掛けてきたため、駆け付けた劉備と共に関羽は孫権側と一触即発の状態となってしまいました。

ただ、天下の情勢は刻々と変化しており、孫権側の部将が関羽と通じたり、曹操が新たな行動を起こしたりと、劉備と孫権が対決している場合ではなくなり、何とか休戦に持ち込むことになったのです。

一時は曹操を凌ぐ勢いも、味方に裏切られ…

image by PIXTA / 16124649

曹操方の軍勢と対決した関羽は見事に勝利を収め、輝かしい武功を挙げました。しかし、彼は同僚と折り合いが悪く、そのことによって足を引っ張られ、ついには破滅へと導かれていくのです。無敵の豪傑がまさかの最期を遂げるまでを見ていきましょう。

毒矢で負傷しても平然としていた

荊州では、曹操の部将・侯音(こうおん)が関羽と通じ、反乱を起こしました。しかし彼は樊城(はんじょう/湖北省襄陽市)を守る曹仁(そうじん)に討たれてしまいます。

同じ頃、劉備は漢中王(かんちゅうおう)を称し、関羽に荊州の全権を任せました。すると関羽は息子の関平(かんぺい)らと共に樊城に攻めかかることにしたのです。

この時、長雨によってこの付近を流れる漢水(かんすい)が氾濫したため、関羽は水軍を使って相手に攻撃を仕掛けました。曹操側の部将・于禁(うきん)を降伏させ、3万もの軍勢を捕虜とすると、やはり曹操配下の勇将・龐徳(ほうとく)を捕らえ、処刑したのです。これは大きな功績でした。また、この戦いで関羽は龐徳から毒矢を受けて負傷したとされていますが、宴の最中に傷を切開させながら、平然と酒を飲んでいたということです。本当だとすればすごい話ですよね。

勢いのすごさに曹操が怖気づく

曹操方の強敵を破り、快進撃を続ける関羽の勢いに、曹操の領内では蜂起が起きました。中には政権の高官までもが関羽に寝返り、曹操はあまりの勢いに怖気づいて遷都することまで考えたと言われています。

弱気になった曹操に、司馬懿(しばい)などの側近たちが孫権との連合を提案しました。以前、孫権は関羽の娘を自分の息子の妻に迎えたいと申し込んでいたのですが、関羽に「虎の娘を犬の子にやれるか!」とにべもなく断られて心証を悪くしていたこともあり、曹操・孫権の連合はあっさりと成立したのです。これで、樊城を攻めている関羽は挟み撃ちされる状態となり、一転、不利となってしまいました。

致命的な欠点:同僚と仲が悪かった

関羽は義侠心にあふれ、部下への思いやりがあり主君へは忠義の心が強い人物でしたが、知識人でもありそれなりに家柄も良い士大夫(したいふ)という、自分と同等もしくはそれ以上の階級の人物たちとは、とかく反りが合いませんでした。孫権に子供同士の結婚を提案されたときに一蹴したのもそれですが、自身の同僚と合わないというのは、彼にとって致命的な事態を引き起こすこととなるのです。

関羽は荊州の軍事総督でしたが、糜芳(びほう)士仁(しじん)という彼を補佐する役割を担う部将たちと仲が悪く、彼らは関羽を恐れるようになっていました。

そこを見逃さなかったのが、孫権陣営の知将である呂蒙と陸遜(りくそん)です。彼らは糜芳と士仁に働きかけ、彼らが関羽から離反するように仕向けてしまったのでした。

味方に裏切られ…ついに捕らえられる

糜芳と麋竺が裏切り、曹操からは樊城に向けて5万もの援軍が送り込まれ、関羽はやむなく撤退します。また、孫権の軍勢から武器や弾薬、兵糧などを奪われてしまった上、呂蒙が関羽の使者に対し、捕虜とした関羽の軍勢を手厚くもてなしていることなどをことさらに語って聞かせたため、残った関羽軍の兵たちは戦意を失って逃げ出し、部隊は散り散りとなってしまったのです。

進退窮まった関羽ですが、孫権から降伏勧告の使者が送られてくると、降伏に応じるふりをして逃走します。あくまで劉備のもとに戻り、捲土重来を期すつもりだったのでしょう。しかし、ほどなくして彼は息子たちと捕らえられてしまいました。

次のページを読む
1 2 3 4
Share: