「守護大名」はどうやって生まれた?
そもそも「守護」という言葉には「国を守る」という意味があります。軍隊といった大掛かりなものではなくて、警察組織のようなもの。といえばわかりやすいでしょうか。犯罪人や乱暴狼藉を働く不届き者を取り締まるための役職だったのです。まずは守護大名の成り立ちについて解説していきましょう。
鎌倉時代に置かれた守護
鎌倉幕府を開いたのはご存じ源頼朝ですが、その頃は朝廷の力もまだまだ強く、西日本ではあまり幕府の権力が及んでいませんでした。
ところが鎌倉幕府と朝廷のガチンコの決戦となった1221年に起こった【承久の乱】で、あえなく朝廷側が負けてしまうと、あとは幕府のやりたい放題。東日本だけでなく西日本にも守護・地頭を置いて政治や経済を牛耳ろうとしたのです。
【守護】とは幕府が任命した行政官兼警察署長のようなもの。
【地頭】とは貴族の荘園や国有地を管理するために置いたもの。
そしてあれよという間に、軍事力と経済力を握った鎌倉幕府の全盛期が出現しました。当時の守護・地頭の横暴さを表したことわざがありますね。
「泣く子と地頭には勝てぬ」
「道理が通じない赤子や、権力を持った地頭に掛け合っても無駄であること。」という意味になります。守護・地頭たちは権力を振りかざしてやりたい放題!朝廷や貴族たちが得る税金を奪い、経済力を抑え込むことが目的でした。
これを機に東国出身の武士たちが守護・地頭として、地方へドシドシ赴任していったのですね。
薩摩の島津氏は播磨(現在の兵庫県西部)の出身ですし、安芸の毛利氏は相模(現在の神奈川県)の出身、室町時代に大きな勢力を誇った山名氏は上野(現在の群馬県)というように、武士たちの勢力が日本全国に及んでいきました。
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建武の親政では守護と国司が並立
鎌倉幕府の成立以降、800年にわたって武士の世が続いていくのですが、2年間だけ天皇が政治の実権を握っていた時がありました。それが建武の親政というもの。いわば天皇を中心とした政治をしていこうという動きでした。
しかし鎌倉幕府を倒したのはいいものの、後醍醐天皇をはじめ朝廷は、武士がいなければ国が成り立たないことにまるで気付きませんでした。
彼らがすることといえば、昔を懐かしんで華麗な儀式を執り行ってみたり、討幕の功績があった者に恩賞すら与えなかったり、かたや功績もないのにお気に入りという理由だけで官位を与えてみたり。そうして武士たちの不満はどんどん高まっていきました。
極めつけは、平安の頃のように日本各地へ国司を赴任させたため、各地に国司と守護が並立する形となってしまったことです。国司とは古代の行政官のことで、すでに鎌倉時代には有名無実になっていましたが、後醍醐天皇は国司に大きな権限を与えてしまったことで、とてつもない軋轢を生むようになりました。
どこの馬の骨かわからないお公家さんが国司としてやって来るわけです。すでに強固な地盤を築いていた守護たちにとって、せっかく手に入れた権益を奪われることは我慢ならなかったことでしょう。
そういった不満が重なり、せっかくの建武の親政もわずかの間に崩壊することとなりました。
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南北朝の争乱をきっかけに守護大名が登場
朝廷に対して不満を持っていた武士たちの頂点にいたのが足利尊氏でした。尊氏は反乱討伐を口実にして関東へ出向き、そこで力を蓄えてから京都の朝廷に対して反旗を翻したのです。
各地で敗れた後醍醐天皇は、結局は京都を奪われて南の吉野という所に逃げ込みます。いっぽうの尊氏は別系統の皇室を立ててこれに対抗。征夷大将軍に任じられて1336年に足利幕府を開きました。こうして北朝(幕府側)と南朝(後醍醐天皇側)の長きにわたる内乱が始まりました。
将軍となった足利氏は「南朝側についた武士をやっつければ、その土地を恩賞として与える」と言葉巧みに味方を募り、その言葉通りに多くの土地を分け与え、各国の守護に任じたのです。領地こそが武士の生活の全てだといっても過言ではありません。幕府方の勢力は強くなり、次第に南朝方を圧倒していきました。
守護に任じられた武士たちを見ても、細川氏、山名氏、畠山氏、京極氏、斯波氏など数ヶ国の守護を兼ねる大名たちも現れ、それぞれが幕府の要職を占めるといった具合で、幕府の屋台骨は彼らが支えることとなりました。
この時代に出現した守護大名は、もはや行政官兼警察署長という単なる役職ではなく、名実ともにそれぞれの国を支配するトップとなったのです。
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