守護大名の暮らしぶりとは?
では具体的に守護大名がどのような存在だったのか?どのように暮らしていたのか?詳しく解説していきましょう。とはいえ専門の歴史用語を使ってしまうと、少々難しく感じることもあるでしょうから、わかりやすくご紹介していきますね。
守護大名は普段はどこに住んでいた?
数ヶ国の守護を兼ねる守護大名の場合、多くは幕府の要職に就いていましたから、ふだんは京都に常駐していることが多かったようです。いちいち任地へ赴くことができないため、その代わりに守護代という代理の者を配置していました。実際、領国ではこの守護代が常にいて、現地の政治差配を行っていたのですね。
しかし自分の国をガラ空きにして、守護代だけに政治を任せるというのはリスクが伴うものでした。戦国時代もたけなわになると、この守護代が力を持ちすぎ、守護大名の指示に従わなかったり、反乱を起こすなど下克上の風潮が高まっていくわけです。
実際に守護代から戦国大名へのし上がったという事例も数多くあり、出雲の尼子氏、阿波の三好氏、備前の浦上氏、越後の長尾氏などが挙げられるでしょうか。
いっぽう守護に任じられているものの、九州や東北地方など遠隔地にいた守護大名は任地に在国していることがほとんどでした。前述の島津氏や伊達氏、そして常陸の佐竹氏などがこれに当たりますが、こういった大名たちは長く在国しているだけに現地の事情にも精通していますし、領国を効率よく支配する術にも長けていました。そういった意味では守護大名から戦国大名へ脱皮しやすかったのではないでしょうか。
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守護大名の住まいはどんなところ?
次に守護大名たちが実際に住んでいた住居を見てみましょう。江戸時代の大名の場合は「お城」というイメージが強いのですが、守護大名の場合は【守護所(しゅごしょ)】と呼ばれる政庁&住居をミックスした館(やかた)が一般的でした。
とはいえ守護が常駐している拠点ですから、不測の事態に備えて防備も怠りません。おおむね数百メートル四方の敷地の外側に土塁や塀などをしつらえ、さらに堀を造って攻められにくい構造となっていました。また守護所ともなると交通の便が良い平地に造られ、国を治めるために都合の良い立地が求められました。
現在も残る守護所の遺構としては、山口県の大内氏館跡や、福井県の一乗谷朝倉氏遺跡などが有名でしょうか。
しかし応仁の乱をきっかけに戦乱が全国規模で波及してくると、平地で暮らす守護大名たちも安穏としていられなくなってきます。まさに下克上が流行している時代、何とか身を守らねばなりません。
そこで守護大名たちが対抗策として考え出したのが、険しい山の上にお城を造ること。平時は守護所で暮らし、戦いになると山城へ登って抵抗しようという算段だったのです。
平地の守護所があり、近くに山城がある例としては、山梨県の「躑躅ヶ崎館&要害山城」、滋賀県の「京極氏城館&上平寺城」、三重県の「北畠氏城館&霧山城」などが挙げられるでしょうか。
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戦乱ががますます激しくなり、日常生活にすら危険を覚えてくるようになると、いよいよ守護大名たちは普段から山の上に暮らすようになります。険しい山を切り開いたり削ったりして平坦な場所を確保し、そこに館や防御施設などを建設しました。さすがにこの頃になると足利幕府も衰退しきっていて、もはや守護という官職じたい有名無実なものになっていました。
守護大名がいた山城として有名なものに、石川県能登半島の七尾城、兵庫県但馬地方の有子山城(山麓にも居館あり)などが挙げられますね。
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格好の接待場所となった守護所
守護大名と国人・土豪層の関係は主君と家臣ではなく、決して主従関係で結ばれたものではありませんでした。しかしながら領国の政治は彼らの協力なしには考えられません。そのため守護大名は絶えず国人・土豪の動向を注視する必要があり、きちんと目を配ることが肝要だったといえるでしょう。
令和2年2月に兵庫県の赤松居館跡で大量の土師器皿(はじきざら)が発掘されました。同様に各地の守護所跡でも多くの土師器が見つかっています。これはどういうことなのでしょう?
守護所は政治を行う場所であると同時に、国人・土豪層を接待する場でもあったということを意味しますね。頻繁に宴会を開いては国人・土豪を招待し、気持ち良く政治に協力してもらうために機嫌取りをしていたことが伺えますね。
土師器は使った後は捨ててしまう消耗品ですから、宴会が終わればポイポイ投げ捨て、その後埋められたものでしょう。将軍や公卿が来た際はもっと高級な食器を出すのでしょうが、国人・土豪相手なら素焼きの使い捨て品で充分だったということでしょうね。
もし守護大名が国人・土豪層の機嫌を損ねてしまったら大変なことになります。例えば信濃国(現在の長野県)守護に就任したばかりの小笠原長秀は、国人衆たちを田舎者だと侮って横柄な態度に出ました。呼びつけておきながら、ろくに挨拶もせず、接待もせず、その無礼な態度は国人たちの反感を買うには十分でした。
その結果、国人・土豪らの反乱が起きることになり、大塔合戦と呼ばれる大きな戦いに発展してしまいました。守護方は散々に打ち負かされ、長秀は命からがら京都へ逃げ帰ることになったのです。
足利幕府崩壊と共に姿を消した守護大名
実利と権威の象徴だった守護領国制も、足利幕府の衰退とともに崩壊していきます。任命するべき将軍に力がなく、実力本位の風潮となった以上は、単なる名誉職に過ぎなくなっていったのです。やがて1573年の足利幕府の消滅がとどめとなり、守護大名という存在じたいがなくなってしまいました。