室町時代日本の歴史

「守護大名」とは?成り立ちや暮らしぶりなどその疑問をわかりやすく解説

守護大名と戦国大名はどう違う?

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同じ「大名」と呼ばれていても、守護大名と戦国大名とは性格がいささか違ったものでした。どのような立ち位置にあったのか?その違いを詳しく解説していきましょう。

守護大名は幕府から任命されるもの

たとえ数ヶ国の守護を兼ねるといっても、あくまで幕府から任命される必要がありました。足利将軍の力がまだ強い時代は守護職を簡単に取り上げられることもありましたし、功績によって新たに守護に任じられるなど、幕府の裁量が大きく影響していたのです。

大名とはいうものの、当時は国有地や荘園の管理官という性格がまだ残っていたため、経済基盤もさほど強固なものではありませんでした。それが決定的に変化していったのが【半済(はんぜい)】と呼ばれる権利の行使を認められてからです。

半済とは戦争のための費用を調達する目的で、国有地や荘園からの年貢の半分を徴収できる権利のことで、守護大名たちはこぞって【おいしい権利】を獲得するために躍起となりました。多くの荘園が解体され、守護大名たちの直轄地として吸収されていったのです。

しかしながら、国人や土豪といった地元の武士たちとの繋がりは希薄で、決して地盤が強固だったわけではありません。国人・土豪たちの協力なしには領国経営もままならなかったといえるでしょうか。守護大名とは決して彼らの上に君臨する王様ではなく、あくまで地元武士連合体の代表に過ぎないのです。

わかりやすくいえば、創業者一族が支配する同族系企業のトップではなく、ただの雇われ社長に過ぎなかったというところがポイントでしょうか。

そういった意味では一国のトップを張る力量がなければ、下からの圧力によって簡単に首を挿げ替えられてしまう危険性。いわゆる【下克上】のリスクを負っていたわけで、そういった意味では守護大名といえど気が抜けなかったといえるでしょうね。

一例を挙げますが、1441年に将軍足利義教を暗殺した赤松満祐は、幕府軍を迎え撃つために領国の播磨へ戻りますが、「将軍を暗殺した赤松に正義なし」として、多くの国人衆が満祐を見限ったといいます。

「強さとカネ」を握った戦国大名

そもそも戦国大名は誰に任命されることもなければ、誰からも干渉を受けることもありません。ただし中世の古い思考から抜けきっていない世の中だったため、天皇や将軍を後ろ盾とする権威だけは求められました。

例えば戦国大名としてのし上がってから、カネを積んで高い官位を獲得したり、守護に任命されたり、それだけの努力は必要だったわけです。見合うだけの格式がなければ家臣や領民は国主とは認めてくれません。

越前の戦国大名へのし上がった朝倉孝景は、応仁の乱で西軍→東軍へ寝返る見返りとして守護職を獲得していますし、逆に美濃の戦国大名だった斎藤道三は、あくどい手法で守護の土岐家を追い落としたがために家臣団の反発を受け、結局は戦いで敗死していますね。官位や官職は国を治めるためには大事なツールだったといえるでしょう。

とはいえ守護大名との決定的な違いは、領国を完全に一円支配できたことに尽きます。国人・土豪層と強力な主従関係を結ぶことでトップとして君臨していましたし、国有地や荘園などを勝手に自分のモノにするのはお手の物。さらに独自の法律を作って支配を行っていました。

戦国大名たちは日常的に戦いに明け暮れていたとはいうものの、基本的には自分の国をいかに富ませ、繁栄させるかがメインテーマでした。尾張の熱田、越前の一乗谷、駿河の駿府、相模の小田原、越後の直江津などなど、どの戦国大名たちの本拠地を見ても、たいへん栄えた商業都市ばかりですね。

そういった意味で言うと、経済・軍事を両立した【富国強兵】を戦国大名が目指したのは、ひたすらに「強さとカネ」を握る実力こそが、領国の安定をもたらすと考えられていたからです。

守護大名から戦国大名への転身

立ち位置が弱い傾向にあった守護大名から、強力な戦国大名へと転身を遂げた大名も実はかなりあります。例えば薩摩の島津氏、駿河・遠江の今川氏、甲斐の武田氏、豊後の大友氏、陸奥の伊達氏など。

時代の流れをよく読んでいたとも言い切れますが、なぜ守護大名から戦国大名へと転身できたのか?そこにはキッカケがありました。実はいずれの家も厳しい内乱や家督相続問題の時期をくぐり抜け、そこから支配体制がガラッと変わって戦国大名化していったという経緯があります。

島津氏は相次ぐ内乱によって、支配地域が薩摩国の半分程度にまで落ち込みますが、義久の代になって薩摩・大隅・日向を統一し、本格的な戦国大名として脱皮しました。

今川氏や武田氏は、家督相続問題に絡む政治体制の一新によって戦国大名化しましたし、伊達氏もまた家督問題に端を発する大規模な争乱を経て戦国大名への道を歩み始めました。

旧体制から新体制へ。うまく移行できた守護大名家のみが戦国時代を生き残っていけたのかも知れません。

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明石則実