普墺戦争の背景
かつて、ドイツは神聖ローマ帝国という一つのまとまりを作っていました。皇帝であるオーストリア=ハプスブルク家を中心とした国家連合に近い状態です。ナポレオンの登場により神聖ローマ帝国が名実ともに解体された後、ドイツ地域をどの国が統一するのか、ドイツ人たちの間で議論となりました。新興国プロイセンは鉄血宰相ビスマルクが急速に国力を増強。名戦略家モルトケのもとで、プロイセン軍は飛躍的に強化されます。
新興国プロイセンの台頭
15世紀、ドイツのフランケン地方の一領主だったホーエンツォレルン家は、神聖ローマ皇帝からブランデンブルク辺境伯に任じられ、のちに皇帝選挙権を持つブランデンブルク選帝侯となりました。
ドイツ全土が荒廃した30年戦争ののち、プロイセンはオランダやフランスの新教徒を受け入れ荒廃した国土を復興します。そして、1701年にはスペイン継承戦争でハプスブルク家を助けたことから、プロイセンは王国に格上げされました。
18世紀半ば、啓蒙専制君主として知られるフリードリヒ2世はオーストリアのマリア=テレジアと2度にわたり大戦争(オーストリア継承戦争と七年戦争)。現在のポーランド南部にあたるシュレジェン地方を獲得し国力を増しました。
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ナポレオン戦争後のドイツ統一問題
18世紀末、フランス革命が勃発。革命の混乱の中からナポレオンが現れ、フランスの国民軍を率いてヨーロッパ全土を征服します。プロイセンやオーストリアもナポレオンと戦いましたが敗北しました。特にプロイセンは国土の大半をナポレオンに奪われ、国家存亡の危機に瀕しました。
ナポレオンが失脚し、ウィーン体制の時代になるとプロイセンもオーストリアもかつての領土を取り戻します。しかし、ナポレオンがヨーロッパ各地に持ち込んだ近代思想や自由主義、民族主義の運動はプロイセンやオーストリアを大きく揺るがし、1848年の三月革命の原因となりました。
また、ナポレオンが持ち込んだ民族主義は、ドイツ人に統一国家の必要性を自覚させます。問題となったのは統一の方法。異民族を多く含むオーストリアをドイツ統一の枠組みに入れるべきか否かが問題となりました。オーストリアを盟主とする統一の考え方を「大ドイツ主義」、オーストリアを除外する統一の考え方を「小ドイツ主義」といいます。
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